目覚まし時計

 

「仕事は人間に必要だ。だから人は目覚まし時計を発明した。」と言ったのは、パブロ・ピカソだったそうです。

 

仕事のためなのか、勉強のためなのか、お祈りのためなのかは様々でも、時を刻んで合図を送る仕組みは、古くから発明されていそうですね。

 

Wikipediaで調べてみると、目覚まし時計を発明したのは、あのプラトンらしいです。

抜粋してみますね。

古代ギリシアでは水時計が使われており、「クレプシドラ」と呼ばれていた。語源は鉄を意味するklepteinと水を意味するhydorである。プラトンはクレプシドラを応用した目覚し時計を発明している。プラトンの目覚まし時計は、夜に水を注ぎ始めると、朝になって容器から溢れた水の力で銅の球がたらいの上に落ち、音が鳴る、というものであった。彼の創った学校アカデメイアの生徒はこれを合図に起床したという。別の説では、複数の容器がサイフォンの仕組みで繋がれており、最後の容器がいっぱいになると空気が押し出されて笛が鳴る仕組みだったという。

人類最初の目覚まし時計は、学生のためだったのか!

古代ギリシアの時代でも、学生は朝に弱かったのでしょうね。

まさに「必要は発明の母」です。

 

私の場合、いつの頃からか、目覚ましには時計を使わなくなりました。

私だけでなく、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のオープニングのような、時計がずらーっと並ぶ光景は、今の時代ではまず見かけなくなったと思います。

私も多くの方と同様に、もっぱらスマホのアラーム機能で代用しています。

ただし、通常使っているスマホではなく、すでにOSも古くなってスマホとして使わなくなっているのをアラーム専用として使っています。

 

こだわり…?これもこだわりというのか、このスマホのアラーム音で起きるのに慣れてしまっているので、習慣的に使っています。

ほかの音でも起きれるのですが、やはりちょっと不安になります。

 

こういう使い方を、変だと思ってはいるのですが。

 

 

 

 

 

シェークスピアの名言

 

例のごとく、これも名言集で拾ってきた言葉ですが、これは少し毛色が変わっていました。

シェークスピアの言葉です。

 

「お前は熊から逃れようとしている。

 しかし、その途中で荒れ狂う大海に出会ったら、

 もう一度獣の口のほうに引き返すのか?」

 

う~ん。「わかったふ~な~」をしようとも思いましたが、正直な話、状況がよくわかりません。

そういう言い方をされたら、荒れ狂う大海に向かうしかないのだろうなとは思うのですが、う~ん、でも、納得はしていません。

 

シェークスピアと言えば、「ハムレット」を初めて観劇した老婦人が「シェークスピアの作品は、私のよく知ることわざや名言・名句ばかりで成り立っているのね」と感嘆したというエピソードがあるくらいですし、「英語のことわざ・格言・名句集」の中で、シェイクスピアの数の多さは歴然としています。

 

ただし、シェークスピアの名言は、どちらか言うとポイントを突く簡潔な言葉で表現されているという印象があります。

「覚悟がすべて」とか「あとは沈黙」とか。(どちらも『ハムレット』から)

 

上の「お前は熊から…」の言葉は、どの作品からの言葉の引用なのだろうかと、少し探してみました。

出典は『リア王』の三幕四場からのようです。

 

ブリテンの老齢のリヤ王は、三人の娘たちに王国を三分割して、国譲りをし、引退しようとします。

ゴネリルとリーガンという上二人の娘は、美辞麗句をもって父親を賛美します。

末娘のコーディリーアは、王のお気に入りでした。しかし、「陛下、何も」(“Nothing, my lord.”)という返答がかえってきます。

その答えにすっかり狼狽した王は、末娘に裏切られたと思い、怒った王は末娘を勘当します。

しかし、長女と次女は、王国を譲られた途端、王に冷たく当たり、愛情の欠片もないことを露呈してしまいます。

 

絶望の中で道化を連れて荒野をさまようリア王が、語るセリフでした。

少し長いですが、どんなセリフなのかを紹介します。(リア王(光文社古典新訳文庫)安西徹雄訳)

該当する箇所を太文字にしています。

 

「この荒れ狂う嵐に肌を噛まれる、それが、それほど大したことだというのか。お前にはそうかもしれぬ。だが、重い病いが巣喰っておれば、小さな病いなど気にはならぬ。熊に出会えば、逃げもしよう。しかし、逃げる鼻先に吼(ほ)え猛る荒波が待っておったら、いっそ熊に立ち向かってゆくはず。心に悩みなどない時なら、体は敏感に感じるもの。けれども、今のわしのように、心に嵐が吹き荒れている時ならば、ほかの感覚などすべて消え去る。感じるのは、ただ、この胸を打つ痛みしかない。子が親に背く!わしの口が、食物を持ってきたわれとわが手を、噛み千切るようなものではないか。必ず思い知らせてやる。泣くものか。もうわしは泣かんぞ。こんな夜に、わしを閉め出す!もっと降れ。耐えてやるとも。こんな夜に。おお、リーガン、ゴネリル、この老いた、大恩のある父を、惜しみなく、一切を与えたこの父を―考えるな。それを思えば、気が狂う。もう考えるな。」

 

王の運命に対する失意、絶望が切々と語られています。むしろ熊の話よりも、病いや心の痛みの譬えの方が胸に響くぐらいです。

 

上の「お前は熊から…」の言葉から受けた印象は、「一度決意したことはやり通せ」ぐらいの意味でした。

「逃れられない運命なら、逃げないで戦うしかない」という決意は、王の凄まじい悲壮感からきているものです。

 

切り取られた「名言」は、時に誤解されながら一人歩きしてしまうものです。

これも、ひとつの例ですね。

 

 

 

童話「いたずらっ子」

 

アンデルセン童話の「いたずっら子」

全部をあわせても短い作品で、全文を青空文庫で読むことができます。

 

リンクを貼っておきますね。

こちら → 「いたずらっ子」

 

正体を明かしてしまえば、「いたずらっ子」=「キューピッド」のお話です。

 

お話の冒頭では、やさしいおじいさんの詩人とキューピッドとの出会いがドラマティックに描かれます。

そして、助けられたキューピッドが、いきなり、おじいさんに酷い仕打ち(いたずら)を仕掛けるのでした。

おじいさんは胸を矢で射られてしまいます。

「チッ! あのキューピッドというのは、なんといういたずらっ子だ! どれ、よい子供たちに話しておいてやろう。ひどいめに会わされんように、あいつには気をつけて、いっしょにあそばんように、とな」

 

お話の後半は、若い読者に対して、この「いたずらっ子」に、どれだけ注意しなければならないかを、明るい口調で諭すのでした。

「なにしろ、年とったおばあさんでさえ、矢を射られたことがあるんですよ。もっとも、それは、ずっとむかしの話で、もう、すんでしまったことですがね。でもおばあさんは、そのことを、けっして忘れはしませんよ。」

 

童話の中のキューピッド。無邪気なところがやっかいです。

語り手の立ち位置が面白いですね。

 

 
Cupidon
 

最高傑作は?

 

世紀の喜劇王といわれたチャップリン。彼にまつわる有名なエピソードがあります。

「あなたの最高傑作は?」と記者に訊かれた時に、「Next One(次回作だよ)」と答えていたというもの。

 

実は、これは違うらしいのですね。(『デマだ!』ときつい言葉で言い切る方もいます。)

なぜかこの言葉が独り歩きして、間違ったまま広まってしまったようです。

 

本当のところ、「最高傑作は?」と訊かれたら「最新作が一番好きだ。」と答えることが多かったようです。

 

当然と言えば当然です。

モノを創出するクリエイターにとって、今作ったばかりのものに満足せずに発表することなどないはずです。

それを「次回作」と言われたら、聞いた人は「え?この作品は?満足してないの?駄作?」となってしまいます。

 

「最新作」と答えたからと言って、チャップリンの評価が下がるわけではありません。

過去の作品にとらわれることなく、今の作品が自分に最もふさわしいと言えるのは素晴らしいことです。

 

何か始めようとする時、(年齢的なことも加味して)始めるには遅すぎたかな?と思ったときに、言われた言葉。

「何をするにしても、今の自分が一番若いんだから」

終わったことは気にせずに、前を向いている感じがいいですよね。

 

 

 

7月の休診のお知らせ

 

ついうっかりお知らせするのを失念しておりました。

6月は祝日がなかったため「休診のお知らせ」がなく、その流れのままに7月を過ごしてしまっていました。

直前のお知らせになってしまい、申し訳ありません。

今週になって(正確には今日になって)今週の木曜日と金曜日に祝日の並びがあることを思い出しました。

7月23日(木)が海の日。

7月24日(金)がスポーツの日。

土曜日も休みで、4連休という方もいるのでしょうが、25日(土)は通常通り(午前診療のみ)となっています。

本来なら、東京オリンピック開幕のための「連休」だったのですね。

ご迷惑をおかけしますが、祝日は外来は休診となっていますので、よろしくご了承くださいますようお願いします。

 

 

 

 

 

「悪人とはゲームができるが、善人とはゲームはできない」

 

中野好夫氏(1903年-1985年)は、英文学者であり評論家です。

 

著作に「悪人礼賛」というエッセイ集があります。

 

 

「ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情との2つにつきる。」という書き出しで始まる短文です。

 

いくつか文章を抜き出してみますね。

 

「およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。」

 

「善意から起る近所迷惑の最も悪い点は一にその無法さにある。無文法にある。警戒の手が利かぬのだ。悪人における始末のよさは、彼らのゲームにルールがあること、したがって、ルールにしたがって警戒をさえしていれば、彼らはむしろきわめて付合いやすい、後くされのない人たちばかりなのだ。ところが、善人のゲームにはルールがない。どこから飛んでくるかわからぬ一撃を、絶えずぼくは恟々としておそれていなければならぬのである。」

 

私にも覚えがありますが、善意でやっているつもりの人たちは、何を言っても聞いてくれませんし、通じません。

 

そういう人たちは、周りが見えていないことがほとんどです。

 

いつの間にか、私も「善意の善人」にならないように、気を付けていくしかないと思います。

 

名言フリーク

 

世の中には「名言」が溢れています。

試しに「名言」を辞書で引いてみると、こうあります。

 

なるほどと感心させられるような、すぐれたことば。有名なことば。(三省堂現代新国語辞典第5版)

よく、ことの道理を言い当てたすぐれた言葉。(現代国語例解辞典第四版)

 

ことの道理を言いあてた「なるほど」と感心させられる要素がつまっていなければ、名言とは言いません。

名言集などを読んでみると、「そういえばそうだよなあ」と感心させられる言葉がまとまって並んでいますから、世の中の道理を学び直すには良い教材だと思います。

 

たとえば、チャールズ・ディケンズの言葉

「太陽は昇ったばかりのときは弱々しいが、それからは時間がたつにつれて力と勇気を増し加えていく。」

 

私にとっては、まさしく「なるほど~」です。

「だから何?」と斜めに構える必要はありません。

 

最近では、午前7時過ぎの陽射しが、すでに強すぎてバテるぐらいですから、実体験で経験していますし、実感が伴っています。

夏に太陽と対峙するのなら、朝早くに太陽が昇ったばかりのタイミングでなければ太刀打ちできません。

 

この名言は、人のはたらきや仕事の勢いを太陽に譬えているのでしょうが、そのセンスに感心します。

調子が出てくるまで、どうしてもある程度の時間が必要です。

けれども、調子が出てくれば、どんどん力と勇気が増していくものです。

 

名言って、やはり面白いですね。

 

 

 

愚か者

 

名言集とかをめくってみると、よく見かける言葉があります。

「愚か者はあれこれ思いめぐらすが、賢い者は人にたずねる。」

ベンジャミン・ディズレーリという方が「アラコス伯爵の悲劇」という小説で発表した言葉なのだそうです。

ベンジャミン・ディズレーリは、1800年代のイギリス・ロンドン出身で、小説家のほかにも立派な政治家でもあり、二度イギリスの首相を務めたことがあったそうですから、多才な方だったんですね。

「アラスコ伯爵の悲劇」を読んでみようと思って探したのですが、残念ながら原著だけで(Count Alarcos: A Tragedy)訳本を見つけることはできませんでした。

台本形式の小説です。

原文はこれです。

The fool wonders, the wise man asks.

この言葉がウチアタイするのは、私は人に道をたずねるのが苦手な人間だからです。

つい手持ちの地図やスマホのマップですまそうとしますから、一歩目の方向を簡単に間違えますし、目的地に到着するまでに時間がかかってしまいます。

私の家族は、わからなければすぐに「道を教えてほしいのですが…」と人に尋ねるので早いですし、何より確実です。

「なんで?訊いたらいいのに」と言われますが、この歳になるまでそうなのですから、性格としかいいようがないのです。

この場合、私は痛いほど自覚している「愚か者」です。

 

 

 

 

「石の上にも三年」

 

誰もが知っている諺に「石の上にも三年」があります。

今、手元に3冊の国語辞典がありますから、片っ端からどういう説明になっているかを調べてみました。

三省堂現代新国語辞典(第5版)には、こうあります。

[石の上でも三年すわりつづければ石が暖まるように]じっとがまんしていれば、最後にはきっと成功するということ。

現代国語例解辞典(第4版)には

たとえつらくても長い間耐えれば、やがて報われるということ。△冷たい石の上でも三年も座り続ければ温まるの意から。

そして、精選版日本国語大辞典には

(冷たい石の上でも三年すわり続ければ暖まるの意から)たとえつらくてもしんぼう強くがんばれば、やがて報われるということ。

出典として浮世草子・西鶴織留(1694)の文章が掲載されています。

「商人(あきんど)職人によらず、住みなれたる所を替(かゆ)るなかれ。石の上にも三年と俗言(ぞくご)に伝へし」

「石の上にも三年」は、元禄時代から俗言として使われているような言葉なのですね。

ですから、今の時代のスピード感とは違う気がしますし、「3年は辛抱しろ」というのは、現実にそぐわない気もします。

けれども、人間は何事も3年続ければ、そこそこの腕前にはなるとも言われています。

私のことで言えば、今では趣味のランニングも、最初はウォーキングからでした。

それから福岡大学の田中宏暁先生の「スロージョギング」に触れて、ゆっくりジョグをしはじめました。

練習だけでは物足りなくなって、マラソン大会をめざすようになって、3年になります。

3年前を振り返ってみると、当時は一生懸命走っていたつもりが見事な摺り足でしたし、ケガが多くて対処法も見当もつきませんでした。

今も試行錯誤ですが、3年続ければ楽しさもわかってきたように思います。

習い事や趣味などの、自分の「好きなことをやること」に関して言えば、私は「石の上にも三年」はアリだと思います。

「つらくても」や「我慢」「辛抱」というのとは違いますが、楽しみを知るには3年続けてみるのは、おすすめです。

 

 

 

 

不幸にならない前の不幸

 

ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師でもあった哲学者、セネカの言葉です。

 

およそ惨めなものは、将来のことを不安に思って、不幸にならない前に不幸になっている心です。

 

備えをすることは大切です。

けれども、まだ起こってもいない心配事で不安いっぱいになってしまっては、かなり残念な状況です。

心配事が実際に現実となる確率は、そう高くないのだとも言われています。

心配事の多くは、心の中だけで済んでしまうものです。

前述のセネカの言葉は、それを見事に言い当てています。

思い悩むことで現実が変わらないのなら、いったんそれを忘れてしまうのも一つの方法です。

現実を変えようと思うのなら、変わらない現実を嘆くより、現実に対する自分のアプローチの仕方を変えた方が数倍効率的です。

何より心配事で心満たす状態は、心身の健康に絶対に良くありません。

不幸にならない前に不幸にならないように、気をつけたいものです。