禅の教えに「十牛図」というものがあります。
特に禅に詳しいわけではないのですが、どの分野であれ、こういう「絵に表したもの」は興味深く関心があります。
この図は「真の自分」に目覚めるまでの道筋を10枚の絵で表したもので、分かりやすい反面、奥深く示唆的です。
下の図はWikipediaから引用したものです。
中国宋代の禅僧、廓庵(かくあん)によるものだということです。
本来の自分を牛になぞらえており、童子は修行者本人を表しています。
図の説明は哲学者 梅原毅氏の解説を載せますね。
①尋牛(じんぎゅう)
心が荒れている。あばれ牛の如くに。かつて私は一匹の牛を家のあたりにつないでいた。
しかし、いつの間にか牛は手綱を断ち切って暴れだし、私に血みどろな傷を負わせて遠い山に去ってしまった。
荒れ狂っている牛のほえる声が私を不安にする。
牛は猛り狂って田畑を荒らし、はては深い谷間に落ち込んで見事な頓死を遂げるかもしれない。
私は疲れた心と、傷ついた身体に鞭打って牛を探しに出かけるのだ。
解説:失った牛を探す場面。本来の自己が内にあることをまだ知らずに、探しに出るところである。
②見跡(けんせき・けんじゃく)
牛はなかなか見つからない。
私は日一日、果てしない野原を歩き回ったけれど、どこにも牛は見当たらなかった。
そしてまた高い断崖絶壁をよじ登ったけれど、私の見たのは、一面に荒れ果てた岩山ばかりであった。
しかし、ある秋の夕、深い夜の闇が天地を覆うとする一瞬前、私は森の入り口で、牛の足跡を見つけたのだ。
解説:牛の足跡つまり手がかりを見つけるが、足跡を見てもそれは知識として牛の存在を知ったことにしかならない。
③見牛(けんぎゅう)
すばやく、そして用心深くその足跡を私はつけて進んだ。
そして私は正しく見た。一匹の荒れ狂っている牛の姿を。
牛は怒りにもえ、私を見て襲いかかってきたけれど、隠すことのできない疲労のようなものが牛の体にただよっていることを、一瞬私は見逃さなかった。
解説:牛の声を聞いて後ろ姿を見る。しかし、まだ牛のすべてを見たわけではない。
④得牛(とくぎゅう)
今だ、私は祈りを込めて縄を投げた。
わが心よ獣の眠りを眠れかし。
縄は見事に命中して、牛の首に巻きついた。
牛は吠え叫び、逃げようとして暴れまわったけれど、私は牛の首に巻きついた縄を金輪際離そうとしなかった。
やがて牛は精魂尽きたかのように、どっと倒れて、死んだように動かなくなってしまったが、私もまた死せる牛のように疲れていた。
解説:ついに牛をみつけて手綱をつけるが、嫌がる牛を引き付けようとする状態。
⑤牧牛(ぼくぎゅう・ぼくご)
手綱をひいて私は家に帰ろうとした。
私はいささか得意になって、牛に言った。
「暴れ牛よ。お前がどんなに暴れても、結局、おれにはかないはしまい。」
牛は私のそういう言葉に反抗するかのように時々、暴れだそうとした。
しかし、その度ごとに、私は手綱をきつく引いて私の優越感を確かめた。
解説:荒れる牛を馴らして連れて帰るところ。手綱を張りつめた様子はない。ここではじめて、牛の顔が描かれる。
⑥騎牛帰家(きぎゅうきか)
山を越え、野を越え、牛と私は村里の近くにきた。
今まで雲に覆われた月も、そのまろやかな姿を雲の間から見せ始めた。
牛はおとなしくなり、私は牛の背の上で心も軽く、歌を歌ったのである。
楽しきかな人生である。
解説:牛に乗り笛を吹きながら家に帰る。牛の表情は明るく足取りも軽い。牛と童子は一体である。
⑦忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)
家に帰って、私は牛をつなごうとすると、ふっと牛は私の手から消えたのである。
牛は確かに今しがた私の前にあったはずなのに、忽然として牛は失せた。
巨大な牛が見る見るうちに気化し、ひとつの映像のようになって、すっぽりとわたしの心の中にすいこまれるように消え失せたのである。
それは一瞬の幻想のようでもあった。
あたりに無限の静けさが漂い、私は冷たい月光に照らされて、独り己の心を見入ったのである。
解説:家に帰って牛のことを忘れ、牛もどこかへ行ってしまう。牛を忘れ去る、つまり悟ったという気持ち自体を忘れた境地である。
⑧人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
また、不可思議なことが起こった。
心をじっと見入っているうちに、私自身が消失してしまったのである。
私と私を取り巻く世界もすっかり消え果て、世界は白い霧のようなものに変化してしまった。
私もまた白い霧のようであり、私が世界であり、世界が私でもあった。
透明で、清潔な完全な真空の世界で私の心も真空な満足に酔っていた。
解説:牛も人も忘れ去られている。迷いも悟りも超越した時、そこには絶対的な空がある。
⑨返本還源(へんぽんげんげん)
しかし再び、あの真空の世界に草が生え、花が咲き、鳥は歌い、春が来るのである。
すべてはもとのままのようであり、生は、希望の歌を高らかに歌い始めているではないか。
柳の緑の鮮やかさ、紅の花の美しさ、世界は改めて無限に豊かな色に輝きわたっているではないか。
解説:ここには童子も牛も描かれていない。悟る前と同じく水は流れ花は美しく咲き誇る。
⑩入鄽垂手(にってんすいしゅ)
このように再び、本に還り、万物が豊かな色を示す世界に、私は何事も起らなかったかの如く帰ってゆく。
脚を現し、腹をむきだし、一見愚者の如くに、町にさすらい歩き、物にあえば物に親しみ、人に会えば人と笑い、見知らぬ人の間で、慈悲を世界にふりまいて生きている。
解説:童子が対面しているのは、悟りを得た老人である。悟りを得たものは、広くそれを伝えなければならないことをあらわしている。しかし、老人と語る童子の姿は、最初の見跡の図に見える姿と同じである。