自分の機嫌をとること

認知行動療法に慣れ親しんで、自分の感情に気づくことができれば、自分の「機嫌」がどんな状態なのかも把握することができますね。

ご機嫌なのか。ニコニコして嬉しいのか。

反対に、イライラしているのか。不機嫌なのか。何かに当たり散らしたいほど怒っているのか。

 

自己啓発モノの本を読んでいると、「自分で自分の機嫌をとる」という言葉が出てきます。

表現が、とても面白いと思いました。

これって、コーピングのカテゴリーに入れてもいいのかも知れませんね。

コーピング・リストのように、不機嫌でイライラしている時に「自分で自分の機嫌をとる方法」を、前もってリストアップしておくといいかも知れません。

私の場合は、最近は日本エレキテル連合の「感電パラレル」を見ること。

コーヒーを飲むこと。割れない腹筋マシーンをつかって20回腹筋すること。

ゴジラについて語ること。カードマジックのセリフを推敲すること。

(本当は「焚き火をすること」を真っ先にあげたい!)

 

他人に自分の機嫌をとってもらおうなんて思わないことです。

自分の機嫌は自分で責任をもつこと。その代り、他人の機嫌はどうでもいいと割り切ることです。

 

他人の機嫌の悪さに引きづられて(空気を読みすぎ!)、自分まで精神的にイライラしたり、場合によっては落ち込む方がいますね。

いいじゃないですか、機嫌の悪い人は放っておいて。自分は自分のご機嫌をとりましょうというのが、この方法のスタンスです。

 

他人の機嫌の悪さは、まさしく「ストレス状況」ですね。

他人がイライラしているのを見て、気が重くなったりイヤな気分になるのは、「気分・感情」。

心臓がドキドキする、どっと疲れて体が重い感じになるのは、「身体反応」

「気分・感情」や「身体反応」は、自分ではどうしようもない。変えることができないし、操作することができないものです。

変えられるのは、認知(考え・イメージ)と行動だけです。

 

他人の機嫌は放っておくこと。(無視するというのも立派な「行動」のひとつです。)

自分にとって、ワクワクすることや嬉しいことに集中すること。

「自分で自分の機嫌をとる」のは、意外に楽しいことなのかも知れませんよ。

 

DSC_0889

3番目の見方

ジョージ・バーナード・ショーの次の言葉を以前に紹介したことがあります。

 

グラスに入っているワインを見て、

「ああ、もう半分しか残っていない」

 と嘆くのが悲観主義者である。

「まだ半分も残っているじゃないか」

 と喜ぶのが楽観主義者である。

 

つい最近、この「ポジティブ」か「ネガティブ」の見方のほかに、3番目の見方があるのだということを教えていただきました。

人は、そこにある事実に意味をつけたがります。瞬間的に、良いことか悪いことか、得か損か、チャンスかピンチか、マルかバツか、二見的に意味づけをします。

「ジャッジする」とは、そういうことですね。

コップの水に対しても、「半分もある」と考えるのも「半分しかない」と考えるのも、事実はコップに水が半分入っているだけです。

多いか少ないかを、人が意味づけしているのですね。

 

意味づけせずに、あるがままの状態をそのまま受け入れるというのが、3番目の見方だというのです。

「あるがままに見る」とは、二見的なジャッジをしないこと。そして、そこに可能性と制限の両方が混在しているのだと想像することなのだそうです。

人に対しても(もちろん、自分に対しても)同じことが言えますね。

「出来・不出来」のジャッジは、もういい加減やめてもいいのではないでしょうか。

 

例えば、認知行動療法のコラム表へ記入を促すと、「出来事」は書けるのに、なかなか自分の心を掴みきれない方を見かけます。

日頃、自分の「気分」や「感情」について、気付いていないのかも知れませんね。

身体的な状態の「疲れた」を「気分」だと思っている方もいます。

「あの人に無視された」は、腹も立ったでしょうが、これは出来事です。

今、自分がどんな「感情」「感じ」であるのかに気づくことが、3番目の見方の第一歩だということです。

 

言葉にできないのは、言葉になる前の一瞬の感覚なのかも知れませんね。

「むっ」とか「お」とか「いえ〜い」とか…(笑)

その感覚をストップモーションできれば、もっと自分自身について知ることができるのだと言います。

まずは自分の感情に気づくこと。

あなたの内側は今、どんな感情がありますか?

DSC_0890

 

クリニックの一歩一歩

6月になりました。今年上半期の最後の月です。いつもながら時のスピードは早いですね。

 

さくだ内科クリニックでも、6月からいよいよ「在宅血液透析」の準備が具体化していきます。

 

思い返せば、何の形にもなっていなくてビジョンを描くしかなかったクリニック開業の時に、クリニック紹介のパンフレットの1ページに「夢」のコーナーがありました。

dream

私たちの願いは「本当のその人らしい生活を取り戻してもらうこと」

クリニックのモットーにもあげたのですが、「その人らしさ」というのは、実はとても難しいことですね。

「その人らしさ」とは、そもそも人間とは?生活とは?人生とは?という人生哲学にも踏み込んで深く考察しなければなりませんでした。

「その人らしさ」を勘違いすれば、「わがまま」にしかなりませんでしたから。

 

クリニックの2年半前にあげた「夢」がこんな内容でした。

dream text

在宅血液透析やオーバーナイト透析が沖縄の地に根付き、広まっていくように。

微力ながら努力していきたいと思います。

 

実は、開業時に挙げたもうひとつの夢が「アニマル・セラピー」なんです(笑)

 

日本抗加齢医学会

第15回日本抗加齢(アンチエイジング)医学会総会に参加しています。

DSC_0531

診療の関係で、昨日の夜に会場の福岡に到着しました。3日間の開催で、残念ながら最終日だけの参加です。

他の学会に比べて、より横断的に各専門科の最近の知見を聴講することができるので、毎年楽しみにしている学会です。

朝のプログラムでは腸内細菌叢と疾患についてのシンポジウムを聴講しましたが、腸内細菌叢と免疫システム、エネルギー代謝などとの関わりが非常に興味深いものでした。

また、別のシンポジウムでは「栄養と健康長寿」について学びました。

人が生きるのにもっとも基本的な「食」と「栄養」について、改めてその重要性を再認識したシンポジウムでした。

DSC_0530

健康な状態というのは、バランスが保たれた状態と言えます。

しかし、私たちは「良好なバランス」について、実はあまり知らないのかも知れません。

 

運動、栄養、睡眠について、もっと勉強していきたいと思いました。

 

 

チーズの穴 !?

昨日、チーズの穴ができる理由が解明されたというニュースが飛び込んできました。

それは100年もの長い間、関係者が追い求め続けていた謎だったそうです。

 

「チーズの穴」というのは、日本人には見事にアニメのイメージが先行してしまっています。

代表格はトム&ジェリーですね。

そのイメージが強いばかりに、ネズミがかじった穴だとか(まさか!)、オヤジギャグ的なジョークが謎の解明を邪魔していたような気がします。

711px-Emmentaler

エメンタールチーズの写真を改めて見てみると、この穴の謎を解明したくなる気持ち、わかりますね。

むしろ、今まで解明できていなかったことが不思議なぐらいです。

 

ちなみに、ネズミはチーズをはじめとして乳製品を食べないそうですよ。

これも都市伝説に近い話だったのですね。 

「かいじゅうたちのいるところ」

映画「かいじゅうたちのいるところ」をビデオで観ました。

1963年出版のモーリス・センダックの絵本が原作です。

まずはストーリーから( Wikipedia からの引用です。)

マックスはやんちゃな8歳の少年。近頃、姉は遊び相手になってくれず、シングルマザーの母は仕事や恋人に気を取られているように思え、不満と寂しさを募らせていた。ある夜、マックスはオオカミの着ぐるみ服を着て、母に逆らって外に飛び出し、目の前のボートで海へと漕ぎ出した。

航海の先にたどり着いた島にいたのは、大きな角や牙を持った「かいじゅう」達だった。その一人キャロルは、仲間のKWが出て行った事に腹を立て、自分達の小屋を壊して暴れていた。突如現れたマックスを食べようとするかいじゅう達に対し、マックスはとっさに自分を「王様」と宣言。その途端KWも戻ってきて、キャロルは喜んで「王様」を迎え入れる。そして皆が一つになれる理想の王国を作る事を目指し、マックスは様々な提案をする。

しかし、意気投合したかに思われたかいじゅう達も、それぞれ思いや悩みを抱え、事態は思わぬ方向に…

 

そこ「かいじゅうたちのいるところ」は、少年マックスの心の奥底を現象化した世界です。

少年は皆かいじゅうを住まわせている…と言ったら、かっこいいのですが、寂しいのか悲しいのか矛盾に満ちた愛情表現だったり、調子に乗り過ぎてしまう危うい破壊願望、そして、話しているうちに嘘か現実かわからなくなってしまう自己顕示欲…。

自分でもどうしたら良いかわからない人間関係。(自分の思い通りにならない他人。)

悲しくて愛おしい少年の精神世界が、映画として表現されています。

意図的なのか、マックスの成長記録ではありません。

ぐちゃぐちゃな心が葛藤し、翻弄され、傷ついた心が、平穏を取り戻すまでの記録映画のようなイメージです。

「あ~あ。そんなことしたら…。そうなっちゃうよな~。」

少年の心と言いながら、実は同じような心の風景を大人の私たちも持っているのかも知れません。

そういう意味では大人のための映画です。

 

ちなみに、原作の絵本「かいじゅうたちのいるところ」は、王様となったマックスがかいじゅうたちと一緒に「かいじゅうおどり」をして盛り上がるのがクライマックスで、その後お母さんが恋しくなって戻ってくるというストーリーです。

 

 

禁煙とサトリ?

最近は、禁煙外来を受診される方も増えてきました。

まず、禁煙をしたいと第一歩を踏み出された決意に敬意を表します。その決意と実行力は素晴らしいことだと思います。

禁煙外来でお話をしているなかで、少し共通して誤解されていることがあるのではないかと思う面があって、ここでお話しておきたいと思いました。

 

それは、「禁煙に成功するとは、タバコを見ても欲しいとも何とも思わなくなること」ではないということです。もちろん、理想的にはそうなのですが、多くの方はそうではありません。

生まれてこれまで、1本も喫煙したことのない人は、確かにタバコを見ても何も感じないかも知れません。

「そこにタバコがある」ぐらいの認知でしょう。

しかし、ニコチン依存に陥った喫煙者は、身体的・精神的依存の両方から、強力な鎖でがんじがらめに縛られた状態です。

特に、ニコチン依存症は強力な依存として身体の奥の方まで浸透しています。

タバコについては、ちゃんと覚えていますし、禁煙が成功しても、油断するとつい手をのばしてしまうことがあるかも知れません。

それは、「やめられないのは意志が弱いせい」などとは決して言えないのです。治療薬を使うのは、そんな身体的依存を少しでもやわらげようとする狙いがあります。

 

禁煙とは、タバコの欲望から自らを遠ざけ、悟りを開き、より高い次元へと解脱する修行僧なようなもの…。

禁煙とは、タバコのことを忘れてしまうこと。

それらはすべて誤解です。

 

まずタバコが依存を導く強力なものだと認識すること。(敵を知ること)

そして、自分の心身はそれにとらわれたことがあると「弱い自分」を認めること。(自分の弱さを知ること)

弱い自分を認めたうえで、対策を講じ、健康をとりもどすという目的に歩みを進めること。(作戦をたてて実行すること)

 

禁煙とは、悟りを開くことではなく、「自らと周りの人々の健康を守る」ための現在進行形の一歩一歩の行為なのだと思っていただきたいのです。

すると、「弱い自分」だけではなく、「守護者としての強い自分」を再発見することにもなります。

再発見しながら、歩みを強めていく。そのための禁煙外来だと思っています。

 

つらく、苦しい修行なら、きついだけです。そういうネガティブなイメージを拭い去ってほしいのです。

ご一緒にいかがですか。

 

tabaco

「がんばる」

「がんばる」という言葉がつかいにくい風潮になって久しくなりました。

「がんばらなくていいんだよ」というキャッチフレーズで、どれだけの人が(私を含めて)救われたかと思うと、この言葉は心身にムチうつイメージがついてまわっている気がします。

つい気軽な気持ちで「がんばれ」や「がんばってください」をつかいがちだったのですが、いつの頃からか、口に出すのも遠慮するような感じになっていました。

 

けれども、この言葉自体、決して悪い言葉ではないですよね。

私の友人は「がんばる」を、「願晴る」と当て字して、願いが晴れる気持ちで行動することが「がんばる」ことだと言いました。

私も、個人的な勝手な解釈ですが、「がんばる」というのは「誠意」や「真摯さ」という言葉に置き換えられるのではないかと思っています。

 

例えば、「誠意」とは「心に何を見ているか」が大切なのだと言った方がありました。

つまり、「誠意がない」というのは、表面的な印象だけで物事を判断し、心に何も映っていない状態なのだという説明でした。

確かに「誠意」と対になる言葉に「信頼」があります。

「誠意がない」人を信頼することはできませんね。それは、「誠意を尽くさなかった」自分自身に対してもそうです。

自己不信が強まるきっかけは「物事の表層だけを見て、心に何も見ず、早急になんらかの評価と判断を下してしまった時」がほとんどで、必ず深い後悔とともに自分のことがイヤになってしまいます。

 

「誠意がない」のと同様、自己保身、こだわり、自己欺瞞に満ちた人に、私は多少過剰に反応してしまいます

意識してしまうのは、自分と同じものを感じてしまうからでしょうか。

 

対して、集中した「誠意」は心揺れず、まっすぐに矢を放ちます。

本心で関わることは難しいかも知れませんが、照れるのではなしに、誠意を尽くして信頼の絆を結びたいものです。

「がんばる」というのは、何となくそういうこと(心に映すこと)だと思うのです。

DSC_0891

 

 

 

 

「希望の透析」

 クリニックに通う患者さんから、皆に読んでほしいと寄贈していただきました。 ラウンジの本棚に置いています。

 希望の透析 池野 佐知子 (著) 

 

アマゾンの内容紹介を引用します。

〝そんな治療法がほんとうにあるのか、ほんとうに患者に支持されているのか。

しかし、「常識を覆す新しいなにか」の裏に、ただならぬ真実があることは、これまで多くの人々を取材してきた経験から知っていた。

同時に、この治療に取り組んでいる医師は、透析治療を専門とする医師の1%にも満たない、という事実もわかってきたのだ。

たった1%にも満たない医師のみが取り組むという、不思議な現状の裏側にあるものはなにか。

この治療法が広まらないのはなぜか。この矛盾にも注目した。

そして、私は今回、「長時間」「限定自由食」という常識破りの透析治療にチャレンジする医師や患者を取材するうちに、この治療法の奇跡を知ることになる。 (「はじめに」より抜粋)”

 

医療者発信の書籍が多い中で、第三者が取材し、一般の方の感性でまとめあげた非常に面白い視点の本です。

内容は、日本の長時間透析のリーディング・ホスピタルである「医療法人かもめクリニック」のドキュメントなのですが、非常にわかりやすい内容でした。

長時間透析を世に広める啓蒙書として、たくさんの方々に読んでいただきたいと思います。

 

「魂の演技レッスン22」

 魂の演技レッスン22 ~輝く俳優になりなさい! ステラ・アドラー著

 

断るまでもなく、今さら私は俳優を志望する者ではありません(笑)

でも、人生できっと経験するはずのないことを追体験できることが「読書」の醍醐味だとしたら、この本を手に取ったのは悪くない選択でしょう?

 

ステラ・アドラーという方はアメリカの女優で演技教師。彼女が設立した演劇学校では、ロバート・デニーロやマーティン・シーン、ロイ・シャイダーなどが学んだそうです。

この本は、彼女のレッスンの中身を書き起こしたものです。

例えば、第一回のレッスンでは、こう生徒に言っています。

「さて、これから皆さんの成長を手助けしていきますが、その前に、あなたの目標は明確ですか?」

「目標を紙に書くこと。これが最初の課題。」

「目標を書けば、すぐわかるでしょう?足を踏み入れたことのない領域にチャレンジする時は、自分が知っている物事の範囲より外側にあることを考える必要があるってこと。」

 

第七回のレッスンの最後には、こんな言葉で締めくくっていました。

「人物がどんな人間か、その人の感情を見ても判断できない。行動が人物を表すのです。感情は行動の結果、生まれるものです。」

 

とても崇高な方なのですね。演技する人間の資質についても「俳優は精神の貴族である」と教えます。

「貴族と同じく、俳優も思想の世界に生きている。劇作家が描く世界に生きている。あなたが思想について話せば、それはあなたの思想になる。それを積み重ねて、表現者として人間として、力が伸びていくのです。」

「いろいろな思想を吸収できる精神を持って下さい。そして世界に向けて思想を伝え、訴えて下さい。それが貴族の精神であり、俳優の精神です。」

素晴らしい教師は、その分野だけでなく、あらゆる分野に通用する実例だと思いました。