思いこまないこと

日常診療の外来で、もっと鈍感になっていただきたいと思う方が時々います。

周りの空気に敏感。空気が読める。人が何を言いたいのか想像できる。

これらはこの方々の特性であり、能力でもあるのでしょう。

ただし、残念ながら、その能力が自分を苦しめることになってしまっているケースです。

 

特に自分のことについて人がどう言っているのか、先読み、深読みしすぎていることが多いように思います。

自分についての評価を人の主観や感情にゆだねてしまうのですね。

 

「世の中にあるすべての評価は、所詮、誰かの思い込みです。」と言ってのけた方がいます。

私も本当にその通りだと思います。

 

誰が何を言っているのか、伝え聞いた言葉で傷つくことほど愚かなことはないですね。

昔から言いますものね。

「人は人。自分は自分。」

DSC_0880

 

犬と影 (肉をくわえた犬)

イソップ物語に「犬と影」というお話があります。

 

 肉をくわえた犬が川に映った自分の影を見た。

すると犬はそうとは気づかずに、どこかのイヌがものすごく大きな肉をくわえているのだと思った。

犬は、自分の肉を放り出すと、大きな肉を奪い取ろうとして、烈火のごとく相手のイヌに向かって吠えた。

こうして、犬は肉を失った。

 

犬が吠えたのは、「もっと欲しい、もっと欲しい」と不満が心を占めていたからなのでしょう。不満を持つ人は相手から奪い取ることしか考えないのですね。

犬の姿が教えてくれているのは、不満を抱えている人の心には同時に他人への憎しみを宿すということです。

欲求不満の方が攻撃的なのはそのせいで、ひとつの不満がふたつ、みっつと、どんどん増殖していきます

 

そして、憎しみで生きていると、必ずすべてを失います。

 

不満でいることの恐ろしさを教えてくれる寓話ですね。

 

Wenceslas Hollar - The dog and his reflection

「暴露法」

今日は認知行動療法の中の「暴露法」について説明します。

 

誰でも、不安や恐怖はできることなら回避したいものです。

けれども、回避行動をとりつづけていると、苦手な場面はいつまでも苦手なままであるばかりか、不安や恐怖をさらに強めてしまうことがわかっています。

 

もちろん、全ての場面で回避することが良くないと言っているのではありません。

身の危険を避けるための回避はとても大切で必要なことですし、恥ずかしいことでもありません。それは強調しておきますね。

 

ただし、不安や恐怖を感じなくても良い場面で、ことさらに不安や恐怖を感じ、生活の支障をきたしているという方がいます。

階段が昇れない高所恐怖症の方とか、エレベーターに一人では乗れない閉所恐怖症の方とか。

そういう時に、意図的に不安や恐怖を感じる場所に居続けて、身をもって体験し理解する方法を「暴露(エクスポージャー)法」と言います。

苦手な場面に自分をさらすわけです。

この方法は、苦手な場面にいても、自然と気にならなくなるまで居続けるというのがミソです。図をご覧ください。

不安と時間

まだ不安度数が高い時に退席してしまうと、「やっぱりダメだ。無理」という意識を強めてしまいます。

 

 

私にも幼い頃、こんな経験があります。区の夏祭りでちょっとしたアトラクションがありました。

肝だめしで暗闇の畑のあぜ道を歩き、林の中のガジュマルの木の下に印を置いて戻ってくるというものです。

もともとの企画が二人ペアだったのが、「一人がいい!」と年長の子どもたちが言い出しました。

子どもにとってはなかなかの恐怖です。

けれども、一人で歩いていると最初は怖かったのが、だんだんと闇にも慣れてきて割と平気になってきました。自分の方が闇の住人になったような気がして、ニヤリと悪そうな笑顔も出てきたものです。

 

苦手な場面に直面すると必ず不安になるけれど、その場に居続けることでそのうち必ず消えていく。

それをまず理解することから、ゆっくりと始めたらいいですね。

 

まずはあまり無理をせず、一段目を上るぐらいの「ほどほどの強度」がいいです。いきなりラスボス級の恐怖と戦うには心の準備が整っていませんし、苦手意識がさらに強まってしまいます。

軽い強度から少しずつ強度を上げていく「不安階層表」のようなものをつくるといいですね。

 

 

インフルエンザB型感染症の発生状況

日常診療での印象ですが、学生を中心にインフルエンザB型感染症がまだ流行しているようです。

 

沖縄県感染症情報センターの発表では、警報終息基準値を下回っているため「流行状況(概況)」は終了していますが、定点あたりの患者報告数の発表は引き続きおこなわれていますので参考になります。

24w

第23週(6月1日~6月7日)から第24週(6月8日~14日)にかけて沖縄県全体として減少していますが(4.32 → 3.09)、那覇市と南部保健所管内では、まだ油断ができない印象です。(4.67と4.43)

okinawa 24w graph

上のグラフでも示されているように、検出されているウイルスはB型がほとんどです。

 

「那覇市の感染症の発生状況」によると、第23週(6月1日~6月7日)の週報では以下のような報告でした。

nahacity

nahacity graph

 

流行期だからというのではなく、「咳エチケット」や「手洗い・うがい」は常に心掛けなければなりませんね。

 

「落書きする人、集まれ!」

今回はTEDからのプレゼンです。

 

サニー・ブラウンさんは「落書きする人、集まれ!」と呼びかけました。

彼女は落書きがいかに良いものかを訴えています。

研究によると、スケッチや落書きが理解力や独創的な思考力を高めることが知られているのにもかかわらず、社会的には落書きは恥ずかしいものとして排他されているようです。

 
私も落書きやなぐり書き、意味のないスケッチなどをよくやる方なのですが、サニーさんのように熱弁をふるうほどにネガティブな経験はありません(笑)。

このあたりの悔しさについては共感できないのですが、言いたいことはわかりますし同意します。

数学の問題を解くときも、皆さん落書きしますものね。

 

6分弱の短くて楽しいプレゼンなので、是非お聞きください。

 

[ted id=1230 lang=ja]

 

基礎とはなんぞや

しばらくカードデックを触っていない日が続いていたので、「せっかくだから基本が大切」ということで、以前に購入したDVDを引っ張り出してきました。

kiso 「基礎とはなんぞや カード編」

この教材が良いのは、ディーリングポジションについてもこだわった解説が盛り込まれていることですね。

稀代のカーディシャンである、ふじいあきら氏自らがディーリングポジションについて説明したりしています。

 

何ごとも基本は大事ですね。

最近は、オーバーハンドシャッフルの受け手の小指の使い方についても教えてもらうことがあったり、学ぶことが多いです。

overhandshuffle

ロベルト・ジョビーのカード・カレッジにも「左手の人差し指と小指の位置」については十分注意するようにとあります。

 

動画は、リズムを実際に目で見て実感できるのが参考になります。

本だと「6~7回くらいまでのシャッフル・アクション」とか、「長すぎず、短すぎないほどほどの長さ」とかの表現になりますから(笑)

時間って「感覚」ですから、実際に見るのと想像するのとでは、やはり違いますものね。

 

それこそ「デックを揃える動作」とかも、目からうろこです。

残りのパケットをテーブルに置く動作も、何気ないのですが無駄なく理屈に合っていますものね。

 

何でも基本は奥が深い!

 

 

 

フーベルツスの聖鹿 「日本の弓術」

 日本の弓術 オイゲン・ヘリゲル著

「的にあてることを考えるな、ただ弓を引き矢が離れるのを待って射あてるのだ。」

ドイツ人である著者が、日本の弓道に戸惑いながらも研鑽を積み、ついには日本の精神をも深く理解したというお話は、とても感心させられるものがあります。

日々研鑽を重ねる中に、こういう逸話があります。

 

ヘリゲルは、的を狙わずに中てるということが理解できないとして師範に訴えました。師範はヘリゲルのその悩みが単に不信によるものだと見抜きました。

「今夜、道場に来なさい」

夜中、暗闇に等しい道場で、師範は細長い1本の線香に火をともして、それを的の前の砂に立てました。線香のかすかな光は非常に小さく、なかなかそのありかがわからないほどです。

そして、的もまともに見えない暗がりの中で、師範は静かに2本の矢を射ました。

師範に促され、射られた2本の矢をあらためると、第一の矢はみごとに的の真ん中に立ち、第二の矢は第一の矢の筈にあたってそれを二つに割いていました。

的など見えるはずもない暗闇の中で、二度とも的の中央を違えず射抜いていたのです。

師範は言いました。

「1本目の矢が的の真ん中にあたったのは30年もこの道場で稽古をしているのであるから、さほど驚くことではないかも知れない。しかし、2本目の矢はどう見られるか。これは私から出たのでもなければ、私が中てたものでもない。それでもまだあなたは、狙わずには中てられぬと言い張られるか。」

「私たちは、的の前では仏陀の前に頭を下げる時と同じ気持ちになろうではありませんか。」

それ以来、ヘリゲルは疑うことも問うことも思いわずらうこともきっぱりとあきらめて、さらに稽古に精進したということでした。

 

このエピソードを読んで、「昔の日本人なら、そういう神業の達人がいたかも知れない」と思ったり、あるいは、もしかしたらヘリゲルよりも強い疑念のまなざしで、このお話をとらえてしまうかも知れません。

実は、現代の私たちこそが、武道の神髄、日本の精神をまっすぐにとらえていないのかも知れないと思いました。

考えてみれば、弓道もそうですが、剣道、柔道、合気道など、究極は道を求めるものなのですね。

 

弓道の師範はさらにヘリゲルにこう説きました。

「弓道が技術ではないこと、理屈を超越したものであること、弓を引いている瞬間の我は、宇宙と一体をなすべきものであること。」

「一射一射が射手の全生命を投げ出したものでなければならないこと、すなわち一射絶命の境地に到達しなければならないこと。」

「射がすなわち禅的生活である。」

そういう生き方が、とても清々しいものとして伝わってきます。

そこに至った境地は、思い量ることもできませんが、私にも強い憧れがあります。

 

著者が師範に贈った「フーベルツスの聖鹿」の絵を下に載せました。

ヘリゲルは、日本の弓道の精神が、この絵に描かれる中世の神秘的な伝説に似ているのだと言っていたようです。

 

Hubertus

 

プロメテウスが守った人間の火種  ギリシア神話から

今回はギリシア神話ネタです。

 

ゼウスはそれまで曖昧だった人間と神々との違いを明確にしようとしました。

その時にプロメテウスがその役目を自ら進んで「自分にやらせて欲しい」と申し出ます。

彼は巨大な牛を屠殺して二つに分け、「神と人間との間で牛の肉の取り分を明確にすれば、これまで曖昧だった違いがはっきりしたものになる。」と提案しました。

 

プロメテウスは初めからゼウスと敵対し、人間に味方する立場をとっていましたから、この時もゼウスに一泡吹かせようと企みを持っていました。

彼は、肉と内臓を胃袋で包んで不味そうな見せかけた塊と、骨を牛の脂で包んでおいしそうに見えるようにした塊とを用意して、ゼウスに選択を任せました。

ところが、ゼウスはプロメテウスの企みはすべてお見通しでした。しかも、見抜いたうえで骨の方を選びます。

なぜなら、骨は朽ちることなく腐らずに残る不滅の部分で、それが神々にふさわしいと思っていたからでした。

とはいえ、ゼウスは自分を陥れようとしたプロメテウスに怒り、人間に報復を与えました。

それは、今まで自由に使っていた火を取り上げ、人間に火を使うことを禁じるというものでした。

 

人間は絶望的な状況に追い込まれることになります。

火が使えない人間は動物たちに対しても無力で、劣った存在になりさがってしまったからです。

プロメテウスは、人間のために天上から火を盗み、分け与えました。その時に、中空の植物であるウイキョウの茎を巧みに利用したといいます。

 

人間に火を与えたのがプロメテウスというイメージですが、もともと人間は消えない火を使っていました。

ゼウスに火を取り上げられ、プロメテウスが人間に再び盗み与えたのは、実は「劣化した火」で、それ以降人間は火をおこす苦労を課せられるようになったのだそうです。

Jan Cossiers - Prometheus Carrying Fire

Jan Cossiers – Prometheus Carrying Fire 

 

謙虚さについて

実は、「謙虚さ」とは誰でもやろうと思えばできる「態度」や「言葉遣い」なのだと思っていました。

ある「型」や「作法」など、それなりのことをトレーニングすれば、「謙虚な態度」は誰にでも身に付くものだと思っていました。

 

けれども、表面的な「謙虚さ」は気持ちが悪いばかりでなく、「この人は信用できない」と思わせてしまうのも事実です。

また、私が謙虚でないと思う人は、昔から印象があまり変わっていません。

どうしてこの人はいつも見栄や虚勢を張ろうとするのだろう。自然体でいる方が魅力的だし、信頼されるのに、と思っていました。

 

そんな時、田坂広志氏のコラム「風の便り」に、なるほどと深く共感した言葉を見つけました。

部分的にですが、紹介しますね。

 

人間は、謙虚になろうと思っても謙虚になることはできない。

自分に自信のない人間は、他者に謙虚になることはできない。

 

謙虚さとは、自分の中に静かな自信が実った時に自然に現れてくる資質なのでしょう。

 

「謙虚さ」とは態度や行動、言葉遣いなどの表面的なことではなく、人間的に成長してやっと身に付くもの、つまり、人としてのあり方や人間性というべきものなのでしょう。

そして、相手への愛情や信頼、尊重によって得られた良好な人間関係が「謙虚さ」として表現されるのだと思いました。

 

付け焼刃的な「謙虚さ」など存在しない、人間性を磨くことが「謙虚さ」を身に着ける唯一の方法なのでしょう。

 

DSC_0844

楽天主義と楽観主義

 
 アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 岸見一郎著

昨日紹介したこの本の中で、アドラーが「楽天主義」と「楽観主義」の違いについて、下のように定義づけしているとありました。

楽天主義と楽観主義

楽天主義と楽観主義の一番の違いは、出発点ですね。

楽観主義は現実を直視し、できるだけ正確に分析し理解することからスタートしています。

そのうえで、「何とかなるとかはわからないけれど、とにかくできることをやってみよう」という姿勢です。

「人事を尽くして天命を待つ」がぴったりくるような姿勢ですね。

表現が面白いです。「何とかなるかわからないけれど、何とかならないわけじゃないかも知れない。結果はわからないけれど、だからできることをやってみよう。」

これを「楽観主義」だというのです。

 

それに対して「楽天主義」は、現実を甘く見ています。時には現実を無視して、都合の悪いことにはフタをしています。

「心が平和なら、現実の不幸は私には関係ない」という感覚です。世界に対して「無関心」です。

ややもすると、私を含め、現代の日本人が陥りやすいワナのように思いました。

 

もちろん、アドラーは人生に向ける姿勢は楽観主義であるべきだとしました。

自分の課題を解決できるとみなす。必ず一本の白い道があると信じる。

アドラーは、その性格性に「勇気、率直さ、信頼、勤勉」などをあげていたようです。