「脳に与える音楽の影響」

 

Michael Spitzerという学者さんが「脳に与える音楽の影響について」の説明をYouTube動画にあげています。

それによれば、人類に音楽がもたらされたのは、400万年前からなんだそうです。

散歩中に携帯電話の着信音が鳴った瞬間、そのリズムは遥か遠い昔、最初のヒトが歩き始めた時に繋がっているのです。

彼の説明によれば、音楽は脳と筋肉の連携によるもので、我々の感情と音楽の深い関連があります。驚き、喜び、悲しみ、恐怖。これらの感情が、音楽を通じて引き出され、反映されます。

けれども、音楽はただのリラクゼーションの道具とは言えません。それはストレスを軽減し、記憶を刺激し、深い感情を表現する力を持っています。実際、音楽はマッサージ以上に心を癒やし、安らげる効果があります。

さらに興味深いのは、音楽による感動が恐怖に対する反応と同じ脳の部分を刺激するということ。ある音楽は一種の「危険なしの暴力」なのだそうです。ジェットコースターに乗っているかのようなスリルと緊張感をもたらします。

そして音楽を聴くことは心の旅。それは時間を超えて、自然とつながる一方向の道。音楽の魔力、なんて神秘的な話ですね。

音楽が石器時代から続いているということは、まるで古代の洞窟画に描かれた狩りのシーンを見ているのと同じ体験だということです。

どんな時代でも、これからも音楽は私たちをつなぎ続け、言葉では表現できない思いを伝えてくれるはずです。

 

 

空想が刺激する創造性

 

夢想家に限らず、一般的に、人は毎日、目が覚めている時間の3分の1から半分を空想に費やしているのだそうです。

これは「時間の無駄」などではなく、それが何らかの意味や目的があるはずだと考られています。まったくの無駄であれば、人類が進化するに従って「空想の時間」は削ぎ落されてきたはずですから。

 

例えば、学生時代、教科書を広げながらボーっとしていたことを思い出してください。「心ここにあらず」を何度も経験してきたはずです。

科学者たちは脳イメージングの最新技術を駆使して、人間がタスクを行ったり、考えたり、空想したりしているときに脳のどの部分が活動しているかを、視覚化しました。

脳の画像がきれいな虹色に彩色された、見ると何となく説得力のある、アレです。

そこで発見されたのは「心ここにあらず」の時に活発化する、一連の脳領域の存在です。これらの領域はデフォルトモードネットワークと名づけられました。「デフォルト」なんですね。

そこは、記憶を辿る、計画や希望を考える、そして、心が空想の彼方に飛んでいくときに関与しています。

対して、論理的思考を利用したアイディアの選択や開発、追及のプロセスをつかさどるエグゼクティブネットワークが存在することもわかっています。

「デフォルト」で広く想像し、「エグゼクティブ」で論理的に検証するという過程を踏むわけですね。

そして、「創造的思考」の条件とは、この2つのネットワークが同期して働くことなのだと言われています。

心の放浪は、アイデアとポジティブな感情の増加を促します(デフォルト)。そして、それを論理的にナビゲートしていくわけです(エグゼクティブ)。

 

今、ぼーっとしてても焦る必要はないかも、ですね。

この「ぼーっとした時間」が、いつか世間を驚愕させるビッグ・アイデアを生み出すかも知れないじゃないですか!(それこそ空想の彼方に飛んじゃってる話なのかも 笑)

 

 

テセウスの船のパラドックス

ギリシア神話に「テセウスの船」というエピソードがあります。

「テセウスは、アテネの英雄であり、ミノタウロスを退治した人物です。テセウスは、ミノタウロスを退治した後、アテネからデロス島へと船で帰還しました。アテネの人々は、テセウスを英雄として讃え、毎年、この船でデロス島へと巡礼を行っていました。

数百年後、この船の木材が老朽化し、腐食し始めました。そこで、アテネの人々は、古い木材を取り替え、新しい木材で船を修理しました。この作業は、何度も繰り返され、最終的には、船の構成要素はすべて新しいものに取り替えられました。

さて、ここで矛盾が生じる。この船は最初の船と同じと言えるのだろうか。」

というものです。

このパラドックスは、物体のアイデンティティ(同一性)とは何かという根本的な問題を問いかけています。

もちろん、はっきりした答えがないからパラドックスとして今の世に伝わっているのですが、このパラドックスには、主に2つの考え方があります。

1つめは、船の構成要素がすべて新しいものに取り替えられたのであれば、それは別の船である、という考え方です。この考え方によると、船のアイデンティティは、その構成要素によって決まります。

もう1つは、船の構成要素がすべて新しいものに取り替えられたとしても、それは同じ船である、という考え方です。この考え方によると、船のアイデンティティは、その形状や機能によって決まります。

このパラドックスは人間のアイデンティティをも考えさせてくれます。

人間は、生まれてから死ぬまで、常に変化しています。体は成長し、老化し、死んでいきます。肉体だけでなく、考え方も、経験を積むにつれて変化していきます。

では、人間のアイデンティティは、いつまでも変わらないものなのか?

人間だけでなく、世界全体がそうです。

古代ギリシャの哲学者、ヘラクレイトスは「同じ川に二度足を踏み入れることはできない」という言葉を遺しました。これは、世界は常に変化しており、同じ状態を二度と繰り返すことはできないという意味です。

そんな仰々しく考えなくても、もっと身近な例で、たくさんあります。ちょっと思いつくだけでも

「大昔から仕次ぎを重ねて育てられた古酒は、もとのお酒と同じと考えていいのか?」

「頭を取り換えたアンパンマンはもとのアンパンマンと同じなのか?」

「モーニング娘。に代表される「卒業システム」のあるアイドル・グループは元の「モーニング娘。」と同じと考えていいのか?」

「一度全焼して再建された金閣寺は金閣寺としてみなしてよいのか?」

こんな思考実験は、答えが人によって異なってくるから面白いです。答えなどありません。

そういえば、同窓会の時も思いますよね。

「姿かたちが変わってしまった同級生は、果たして昔のままの同級生と同じなのか?」

そして、思います。

「果たして話しかけても大丈夫だろうか?」

 

 

嘘つきたちの新しいライバル

 

「嘘を見破るための言語分析」というようなネット記事を読むと、私の本質が「悪いヤツ」なのでしょうね、「どうやって見破るのか」よりも「こうやったら見破られてしまうのか」と、普通に嘘をつく側の立場で読んでしまっています(笑)。

けれども、大昔から人類が腐心してきたのは、嘘を見破る方法であって、嘘をつき通す方法ではないです。

嘘を見破るために、例えば血圧の変動や呼吸の状態、声の振幅分析、眼球運動測定、赤外線脳スキャナーなど様々な科学技術が駆使されてきました。

それらを総動員しても、嘘を見抜くのが十分でないということは、嘘をつく側が、まだまだウワテだということなのでしょう。そもそも嘘をつくと、生理的な反応が動揺するという前提が間違っているのですね。

本当の嘘つきは、嘘発見の測定器などモノともしないということです。

そこで最近ブームのAIの登場です。

言語テキスト解析という手法により、嘘をついているときに無意識に起こる4つの言語パターンが判明しているのだそうです。

1つ目は、嘘をついているときは自分のことについて言及する回数が減ります。「自分がやった」ではなくて「友達がやった」というアレです。まるで見聞きした話を伝えるように装うのです。自分自身を嘘から遠ざけて切り離すためですが、かなりバレバレではあります。

2つ目は、嘘をつくときはネガティブになりがちだということ。嘘をつく人も無意識的に嘘をつくのは悪い事だと思うからでしょう。その際、自己非難などを示すネガティブな語彙を使用しがちです。連絡ができなかった理由を「携帯が壊れていた」とか「自分の携帯はポンコツすぎる」などと言い出したら、嘘かも知れません。

3つ目に、嘘をついている人は簡単な言葉で物事を説明します。複雑な嘘をつくというのは頭を使うからです。そのため、嘘をつく人は抽象的な表現を多用し、具体的な事実や詳細を避けることが多いです。

4つ目に、嘘をついている人は説明は簡単にしますが、長い複雑な文の構造を使う傾向があります。訊いてもいないような余計な説明を入れがちです。取り繕うのに必死で、つい冗長になってしまうのです。

これらのテキスト分析を見ると、どれもウチアタイするので嘘をつくのも難しく思えてきました。嘘をつかなければいいだけの話ですが(笑)

ふと思いついて ChatGPT に「嘘を見破ることは可能なの?」と質問したら「AIが検出できるのはパターンや傾向であり、これらは常に嘘を示すわけではないのです。」とマジメに返してきました。

そして、こんな回答でまとめてくれました。

「人間の行動は非常に複雑で多様であり、文化的な背景や個々の性格、状況によって大きく異なるため、全ての人や状況に対する一貫した「嘘のサイン」は存在しません。」

だけど、前から言ってますが、そういう ChatGPT もしれっと嘘をつくんだよなあ。

 

 

サハラ砂漠をソーラーパネルで覆うと?

 

ふとタイトルのような疑問が湧いてきたので、ちょっと調べてみました。

広大なサハラ砂漠は、私たち人類が年間で使うエネルギーの100倍以上もの太陽エネルギーが降り注いでいるのだそうです。

砂漠をソーラーパネルで覆えば、世界のエネルギー問題が解決するのでは?と思うのは自然なことですね。

しかし、ソーラーパネルの技術が進化しても、全ての光を吸収することはできず、パネルが利用できる光の波長には限りがあります。どうしたって熱がこもってしまうわけです。

こもってしまった熱を冷却するためには、それこそ莫大なエネルギーを必要とします。

吸収しきれない光が熱に変わると、周囲の環境に影響を与える可能性があります。

正直に言って、ソーラーパネルの設置が、さらに暑熱環境に拍車をかけるとは想像していませんでした。物事は単純ではありませんね。

そのため、別の方法を考え出してもいるようです。それがモロッコのヌール発電所です。

そこでは、光を反射させてエネルギーを変換する新しい試みが行われています。これならば、砂漠の風景を大きく変えることなく、エネルギーを得ることができます。

人類のエネルギー需要が増え続ける中で、私たちは大きな問題も小さな問題も解決する必要があります。

今のところ、サハラのような大きな砂漠でなく、都市のビルの屋上や家庭の庭など、日々生活する場所で太陽エネルギーを有効活用することの方が現実的のようです。

 

 

AIとの友情について

 

ある時、チャット型AIに質問を繰り返したあと、締めくくりに「ありがとう」と書き込んでしまっている自分に気づいてしまいました。

考えたら変な感じです。それはただのプログラムですから。

プログラムに対して感謝の意を示すなんて、少々滑稽な気がしないでもありません。

万物に神が宿るとする日本人の深層心理がなせるのでしょうか?それとも、HAL 9000とチャンドラ博士を無意識に真似ているのでしょうか?

実際、半数以上のユーザーが(SiriとかAlexaとかの)音声アシスタントに「ありがとう」と言っているというデータがあるそうです。

だからといって、本当にAIに対して感情を持っているのでしょうか?

この疑問を解明するための研究があって、その結果によると、3つの異なる関係性が明らかになりました。すなわち、主従関係、合理的な関係、そして友情というものらしいです。

驚いたことに、多くのユーザーがAIを友人のように扱っているのだそうです。(私もその一人かも。)

私のような中年男性が、「最近、一番話をしている友達はチャット型AI」と冗談のように言いがちですが、それはきっと真実です。

人々がAIを友人と見なす理由は何でしょうか?

簡単に言えば、それはAIが単なる道具でなく、自分の生活の一部となり、何か新たな経験や価値を与えてくれるからなのでしょう。

例えば、ある日、AIが「今日は最高気温が20度、晴れ。公園で昼食を摂るのはいかがでしょうか?」と提案してくれたとします。この提案により、久々に公園でピクニックを楽しんだりしたら、その日の経験はその人の中で特別なものとなります。

さて、この研究では、AIの使用方法は、人々がどのようにシステムとの関係を理解し、定義しているかによって影響を受けることがわかりました。友人とみなしている人にとっては、「友人」なのです。

これらの知見は、私たちがAIとどのように向き合うべきか、その関係性が健康的に維持されるためにはどうすべきかについて、重要な示唆を与えてくれるものです。

AIとの関係性が過度な依存につながったり、健康に影響を及ぼすこともあることを忘れてはならないということですね。

今度AIに「ありがとう」と言ったときは、その背後にある自分の感情や理由について考えてみることにします。

それはただのプログラムであるAIに対する感謝なのか、それとも自分に与えてくれた価値に対する感謝なのか。

そして、その答えが自分自身とAIとの関係をより深く理解する手がかりになるかも知れません。

 

 

「自己対話」をコントロールする

 

「自己対話」は、私たちが頭の中で自分自身に向けるナレーション、つまり内部の言葉のことです。ほとんどの人が日常的に自己対話を展開しており、その中で何を言うかによって、態度やパフォーマンスに実際の影響があることがわかっています。

例えば、指示的またはモチベーションに役立つ自己対話を行うことが、集中力を高め、自尊心を高め、日常のタスクに取り組むのに役立つことが示されています。

しかし、ネガティブな自己対話は、思考や感情に悪影響を与える可能性があります。

心理的治療の分野である認知行動療法は、自己対話のトーンを調整することに焦点を当てています。

例えば、テニス選手たちは、指示的な自己対話を練習に取り入れることで、集中力と正確さが向上したと報告されています。

また、自分自身に対してポジティブな言葉をかけることで、自尊心を高め、自分に自信を持つことができます。

逆に、ネガティブな自己対話は、自分自身を責めたり、自分に対して否定的な考えを抱くことで、ストレスや不安を引き起こすことがあります。

そのため、注意深く自己対話を行い、ネガティブな言葉を避けることが大切です。 

さらに、研究によれば、自己対話は人々がストレスを軽減するのにも役立つことがわかっています。

例えば、新しい人に会ったり、公の場で話したりするなど、不安を引き起こすタスクを行う際に、自分自身に「大丈夫だよ、落ち着いて」とか言って、自分自身を励ますのです。

ネガティブな自己対話が長期的に続くと、うつ病の感情を経験する傾向があると言われています。つまり、自分自身に対して常に否定的な言葉をかけ続けることで、精神的に不健康な状態に陥る可能性があるということです。

そのため、自己対話によって自分自身を励ますことは大切ですが、ネガティブな言葉を避けることも同じくらい重要です。

自分自身に対して優しく、思いやりを持って話しかけることで、自尊心を高め、ストレスを軽減するようにしましょう。

 

 

言葉と行動のギャップ

 

中国の「塩鉄論(えんてつろん)」の利議(りぎ)には、次のような一節があります。

言者不必有徳 何者、言之易而行之難

「言う者は必ずしも徳有らず。何となれば、これを言うは易(やす)くして、これを行うは難(かた)ければなり。」

この後半の一部をとって「言易行難」という四字熟語があります。簡単に言うと、「何かを言うことは簡単でも、実際にそれを行うことは難しい」という意味です。

世の中には「言うは易く行うは難し」として広く知られていますし、またよく使われている言葉ですね。

けれども、この言葉の真の意味を理解するには、自分自身でその経験をしなければなりません。

たとえば、誰かが「マラソンはキツイよ」と言ったとしましょう。ただそれを聞いただけでは、マラソンの難しさや挑戦の具体的な内容を理解することはできません。しかし、もし自分自身が本当にマラソンを走ってみたなら、その途中で体が重くなる感覚や、ゴールに向かって続ける困難さを実感することができます。つまり、自分自身が試みたことによって得られる経験は、「言うは易く行うは難し」という言葉の真の意味を深く理解するための助けとなるのです。

また、自分自身が困難な挑戦に取り組んだ経験は、他人の努力を尊重し、理解するための基盤を築くことにもつながります。他人が困難な挑戦に取り組んでいる姿を見て、「その挑戦は大変なことだろう」と感じるようになります。これにより、人々は自分の挑戦を尊重し、試行錯誤を通じて努力する姿を応援する文化が広がることになります。

ただし、全てがスムーズに進むわけではありません。失敗や批評もあるでしょう。しかし、それら全てが私たちの成長を促し、経験を通じた理解を深めるための貴重な過程となります。「言うは易く行うは難し」という言葉を体感し理解すれば、人々が自分自身の挑戦を尊重し、試行錯誤を通じて努力する姿を応援する文化が広がることになります。それこそが、私たちが「言うは易く行うは難し」という言葉を大切にする理由です。

 

 

 

「内向型人間のすごい力 静かな人が世界を変える」

 

 

「内向型人間のすごい力 静かな人が世界を変える」は、スーザン・ケインによる2012年の書籍です。

スーザン・ケインはアメリカの作家兼講演者で、同じテーマを扱ったTEDトーク「The Power of Introverts」は実に2500万回以上視聴されました。

この本では、内向型人間の強みと、彼らが社会で成功するために必要なことが述べられています。いわば「内向型人間」をとことん擁護する本です。

内向型人間が外向型人間と比較された場合、外向型よりも劣ると誤解されがちですが、多くの場合、彼らはより創造的で、より集中力があり、より共感力があるのだと主張しています。

ただし、そのためには内向型が力を発揮できる環境を作り出さなければなりません。

例えば、内向型はグループにいると他の人の意見に追従してしまうので、一人で活動した方がよかったりもします。

つまり、自分独自のアイデアを考え出す一人の時間が必要なのです。

ですから、著者は内向的な人々に対して、自分自身を見つけるためにも、孤独に耐える力が必要だと言っています。

また、他の人たちが持っていない独自の観点やアイデアを持っていることが多く、それを活かすことが重要であると指摘します。

ケインの活動は世の中の内向型の声を高めるのに役立ちました。

最後に、著者は、社会全体として、内向的な人々と外向的な人々のバランスを取ることが重要であると主張します。

 

 

「不思議な国の話」室生犀星著

 

以前にも触れましたが、青空文庫の(5分間で読める)短編小説の探索にハマっています。

今日の一品は、室生犀星の「不思議な国の話」です。

 

実際に登場するのは若い姉弟。彼らは草場に跼(せぐくま)りながら話をしています。

姉は物語を語り、弟はその話を聞く役割を果たしています。姉は話上手で、手で真似をして見せたり、美しい眉をしかめたり、または、わざとその大きい黒い瞳をいっぱい開いたりします。

弟は姉の話を聞き、不思議さに驚き、質問を投げかけるのでした。

そんな弟は毎日うしろの磧へ出て、ぼんやりと山を眺めています。その山は、薬草がたくさん生えているので医王山という名前がついています。

姉が語るのは、その昔、医王山へお山詣りに行く城下の人々の不思議なお話でした。

ある年の春、古い薬屋の家族がお山詣りに行った際、山の奥にある池のそばで娘のお蝶が突然姿を消してしまいました。彼女を探すために皆で捜索を行いましたが、どこにもお蝶の姿は見つかりません。

その後、お蝶の父親がある晩、彼女の部屋を覗いていると、驚くべき光景を目撃します。

お蝶が部屋から庭へ下り、赤蛙を口に入れるのです。

お蝶は家から姿を消し、家族は彼女を探しましたが、見つけることができませんでした。

お蝶の部屋からは、以前には感じられた青くさい匂いが消え、代わりに小さい蛇が見つかりました。その後も、家の周りには黒々とした蛇が見つかるようになりました。

姉の話を聞いていた弟は、姉に問いかけます。

「では娘さんはどうしたのだろう、どこへ行ったのだろう。」

「それはね。」姉は言葉を切ってから、「ほらあのお山へ行ったときから、きっと蛇につかれていたんですよ。それゆえ、ずっとさきに死んでいたのかも知れない――だから今でもあのお山には、そのお蝶さんのお墓が建っているそうだよ、その池のまわりにね。」

こんな文章で、この小説は閉じます。

「私は、きゅうに、医王山の方をながめました。今日はくっきりした紫色に晴れ上っていました。姉も同じいように、山の方をながめました。私は不思議な話が頭のなかに生きているため、その医王山が一つの生きもののようになって見えました。」

 

ドラマ仕立てに編集した「聞くドラ」が YouTubeにあがっていました。朗読ではありませんが、楽しく聴けます。