自由律俳句の俳人、種田山頭火の作品は(旧仮名遣いですが)青空文庫で読むことができます。
こちら → 作家別作品リスト:種田 山頭火
そして、試しにネットで「種田山頭火の名言」と検索すると、「なるほど」と唸り、胸に響くような言葉がいろいろとヒットして溢れてきます。
その中のひとつに下の言葉があります。どこかで目にしたことがあるかも知れませんね。
歩かない日はさみしい、飲まない日はさみしい、作らない日はさみしい、ひとりでゐることはさみしいけれど、ひとりで歩き、ひとりで飲み、ひとりで作つてゐることはさみしくない。
この文は「行乞記(一)」の中の十月廿日の日記が出展ですが、膨大な種田山頭火の言葉の中かからよくぞ拾い上げたものだと感心します。
少し長いですが、引用できないほどではないので、「十月廿日 晴、曇、雨、そして晴、妻町行乞、宿は同前。」の全体を引っぱってきますね。
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果して霽(は)れてゐる、風が出て時々ばら/\とやつて来たが、まあ、晴と記すべきお天気である、九時から二時まで行乞、行乞相は今日の私としては相当だつた。
新酒、新漬、ほんたうにおいしい、生きることのよろこびを恵んでくれる。
歩かない日はさみしい、飲まない日はさみしい、作らない日はさみしい、ひとりでゐることはさみしいけれど、ひとりで歩き、ひとりで飲み、ひとりで作つてゐることはさみしくない。
昨日書き落してゐたが、本庄の宿を立つ時、例の山芋掘りさんがお賽銭として弐銭出して、どうしても受取らなければ承知しないので、気の毒とは思つたけれど、ありがたく頂戴した、此弐銭はいろ/\の意味で意味ふかいものだつた。
新酒を飲み過ぎて――貨幣価値で十三銭――とう/\酔つぱらつた、こゝまで来るともうぢつとしてはゐられない、宮崎の俳友との第二回会合は明後日あたりの約束だけれど、飛び出して汽車に乗る、列車内でも挿話が二つあつた、一つはとても元気な老人の健康を祝福した事、彼も私もいゝ機嫌だつたのだ、その二は傲慢な、その癖小心な商人を叱つてやつた事。
九時近くなつて、闘牛児居を驚かす、いつものヨタ話を三時近くまで続けた、……その間には小さい観音像へ供養の読経までした、数日分の新聞も読んだ。
放談、漫談、愚談、等々は我々の安全辨だ。
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種田山頭火が活き活きと暮らす、ある日の様子が描かれています。
本当に「生きることのよろこび」に満ちた文章だと思います。何より楽しそうです。
こんな毎日を過ごすことができたら、幸せですね。