2月の晴天

 

今日は休日でしたが、事務的な仕事が残っていたのでクリニックを訪れました。

 

ふと空を見ると、目を見張るような快晴です。

 

たしか浦添では「てだこウォーク」の2日目。良い天気に恵まれて、きっと参加者も喜んでいることでしょう。(かえって日差しに参っているかも!)

 

思わずクリニックが入っているビルの屋上に上りました。

 

そこから、360°パノラマ写真を撮ってみました。

 

遠くに慶良間諸島が見える…はずですが、残念ながら今日は霞が強くて見えません。

 

空を見上げると、気持ちの良い青空です。ドライブ日和と言ってもいいかも。

 

少々暑くても、晴天なら気持ちも明るくなりますね。

 

 

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「扉は閉ざされたまま」

 

私にとっては久しぶりの「倒叙ミステリー」でした。

 

 扉は閉ざされたまま 石持 浅海著

 

 

倒叙ミステリーは、最初に犯人が事件を起こすところから物語が始まります。

 

犯人目線で物語が進行することが多く、読者は否応なしに犯人の心情を理解し、時に感情移入することになります。

 

もちろん犯人は完全犯罪を狙っていますから、証拠を残さないためにどんな知恵が絞り出され、どんな工夫がなされたのかを読者は理解します。

 

(これでうまくいくはずだ)

 

そう思ったのなら、読者はすでに犯人の心理的共犯者ということでしょう。

 

物語の進行とともに、追い詰められていく犯人の心理と同じ調律で不安や逡巡や怖さを体験することになります。

 

事件が発生した後に、探偵が登場。

 

たいていが犯人より圧倒的な頭脳を持った名探偵です。

 

倒叙モノの代表格の「刑事コロンボ」しかり。「古畑任三郎」しかり。

 

そして、この「扉のとざされたまま」の、本来は火山学者が本業の「碓氷優佳」もそうでした。

 

「冷静で冷たい」

 

そう彼女を評した表現が、物語の随所に出てきます。

 

犯人と優佳の心理戦、頭脳と頭脳のせめぎ合いが見事でした。

 

けれども、残念ながら犯人の殺人を起こす動機が最後の最後まで語られず、(それがこの物語の一番の謎といえば謎なのですが)それがあまりに特殊な経験と心情であったために、私個人としてはもうひとつだけ前のめりになれなかったのが残念でした。

 

考えてみれば「ある人を殺したい」と思うほどの動機というのは、その人の「生死」の境目を分けている、もしかしたら本人さえも気づいていない「その人間の本質」とでも呼ぶべきものなのかも知れませんね。

 

偉そうなことを言いましたが、それ以上に犯人vs探偵の心理戦が楽しめる、面白いミステリーだったと思います。

 

 

ことば

 

JKの娘がふともらした一言で、私の目の前には「?」マークが出現し、ぷよぷよと浮かんでいました。

 

「…で、明日はオロジャなんだって。」

 

「ん?オロジャ?」

 

前にも教えてもらったことがあると思うのですが、すっかり忘れてしまっていました。

 

何しろ日常的に使わない言葉ですから、(遠い昔に習った外国語のイディオムのように)記憶のかけらも残っていません。

 

「オロジャって、どこだっけ?」

 

「小禄ジャスコのことだよ」

 

私の反応に理解したのでしょう。娘は続けて

 

「じゃあ、バルコってわかる?」

 

と訊いてきました。

 

「バル」は地名の一部でしょう。「ニシバルグヮー(西原小)」あたりかな?と見当をつけた私は

 

「西原(ニシハラ)…」

 

「コ」って何だろう?頭を回転させてみましたが、わかりません。

 

「ファミマ?」

 

口から出まかせです。

 

「なんで!ファミマ?(笑)」

 

「わからん!教えて」

 

「南風原(はえばる)ジャスコだよ。バルジャとも言うね。西原だったら、ニシティ。西原シティ。」

 

オロジャやらバルコやらニシティやら。(また忘れそうです。)

 

朝のクッシュボール・ミーティングで、その話をしたら、少し前の世代の元JKは、バルジャではなく「バルジャス」と呼んでいたそうです。

 

言葉って、人が使っていくうちに形を変えていく生き物そのものなんだなって、つくづく思いました。

 

 

 

360°パノラマ写真

 

今は、360°パノラマ写真が手軽に撮影できる世の中なのですね。

 

画質にこだわらなければ、そんなに高価でもなくなっていますから、お試しに使ってみることも可能です。

 

 

360°パノラマ写真というのは、ちょうどGoogleマップのストリートビューのような写真です。

 

全方位写真とも全天球写真ともいう、あの写真のことです。

 

 

PCでは写真上でマウスをクリックして上下左右に動かすと、全方位の画像を見る事ができます。

 

また、スマホでは本体を見たい方向に動かしたり、指でスワイプすると、その方向の写真を見ることができます。

 

 

行ったことのない場所の雰囲気を伝えるのに、このようなパノラマ写真はとても役立つように思います。

 

今回は、クリニックの発熱患者さんのための専用待合室の中の様子を撮影してみましたので、その写真を載せてみました。

 

ベンチシートの上にある「ひとつ目小僧」のようなものは、カメラを隠すマークです。

 

 ← これのこと

 

アンノウンみたいな生きものを飼っているわけではありません(笑)。

 

ある場所やある建物、イベントなどの紹介などに、このパノラマ写真は威力を発揮しそうです。

 

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沖縄県のインフルエンザ流行状況 2019年第4週

 

沖縄県の2019年第4週(1月21日~27日)のインフルエンザの流行状況です。

 

保健所単位では宮古保健所も新たに警報基準値を上回ったため、全保健所管内で警報レベルとなってしまいました。

 

 

流行の勢いもまだ衰えていません。

 

 

今日の外来診療でも、「学校で流行している」「家族もインフルエンザと診断された」という方が多く、発熱患者さん用に用意した部屋がフル回転で利用されるようになっていました。

 

なかには、「職場で流行している。心配なので検査してほしい」という無症状の方が受診したりして、必要以上の心配や不安が広がっているのかなと思いました。

 

「インフルエンザにかからないためにはどうすればよいですか?」について、厚生労働省のサイト「インフルエンザQ&A」には、こうあります。

 

1) 流行前のワクチン接種

 インフルエンザワクチンは、感染後に発症する可能性を低減させる効果と、発症した場合の重症化防止に有効と報告されており、日本でもワクチン接種をする方が増加する傾向にあります。

 

2) 外出後の手洗い等

 流水・石鹸による手洗いは手指など体についたインフルエンザウイルスを物理的に除去するために有効な方法であり、インフルエンザに限らず接触や飛沫感染などを感染経路とする感染症の対策の基本です。インフルエンザウイルスにはアルコール製剤による手指衛生も効果があります。

 

3) 適度な湿度の保持

 空気が乾燥すると、気道粘膜の防御機能が低下し、インフルエンザにかかりやすくなります。特に乾燥しやすい室内では、加湿器などを使って適切な湿度(50~60%)を保つことも効果的です。

 

4) 十分な休養とバランスのとれた栄養摂取

 体の抵抗力を高めるために、十分な休養とバランスのとれた栄養摂取を日ごろから心がけましょう。

 

5) 人混みや繁華街への外出を控える

 インフルエンザが流行してきたら、特に御高齢の方や基礎疾患のある方、妊婦、体調の悪い方、睡眠不足の方は、人混みや繁華街への外出を控えましょう。やむを得ず外出して人混みに入る可能性がある場合には、ある程度、飛沫感染等を防ぐことができる不織布(ふしょくふ)製マスクを着用することは一つの防御策と考えられます。

 

 

 

意外にというか、あまり「手洗い」の効果が浸透していないようにも思います。

 

しっかりと手洗いをすることは非常に大切ですし、予防の第一歩になります。

 

声をかけあって手洗いしていきましょう。

 

 

フンデームン

 

甘えたり、だだをこねたりすることを沖縄の言葉で「フンデー」と言います。

そうする人のことを「フンデームン」

「フンデーワラバー」のように、もともとは子どものことを表していた言葉のようですが、幾つになっても相手を困らせてしまう「わがまま者」にも「フンデーグヮー」と言います。

「フンデービカー、アビトーサ」(わがままばかり言っているさ)

「イチマディン、フンデースンナーヨー」(いつまでも甘えるなよ)

母は、昔から、私が愚痴を言った時や、泣き言をもらした時には「フンデーばかりして」と諌めてくれました。

母に言わせれば、私の「泣きっ面」は「フンデー=甘え」に見えていたのでしょう。

親にとって子どもは、いつまでも「フンデーグヮー」なのだと思います。

 

 

 

トランプの名刺

 

マジックを趣味にしている人間が、一度は頭によぎって作ってみたくなるもの。

それはバイスクル・カードを素材にした自分の名刺です。

誰もが思いつく一番簡単な方法は、ブランクカードを入手して、それに名前を印字する方法。

けれども、実際にやってみたことがある方はわかると思うのですが、このカードにはインクが乗らないのです。

「あなたが選んだカードかわかるように、このマジックでサインしてください。」

マジシャンが観客にマジックペンでサインしてもらう光景を見たことがある方も多いと思います。

けれども、あの油性インクも時が経つにつれて剥がれていきます。

いつしか私の中で「バイスクル・カードで名刺は作れない」というのが常識になってしまっていました。

それが。

不可能と思えた「トランプ名刺」を自作した方がいたそうです。

 

「へえ!すごい!その名刺、ちゃんといただいたの?」

「それが、要らないなら返してくれと言われて」

「えっ!欲しいのに!」

「実は大変な思いをして作ったんだけど、トランプって普通の名刺サイズと比べて大きいでしょ?」

「ああ…」

「名刺入れに入らないから、せっかくあげても無くしてしまう人が多くて…」

「そうかも知れないね。ブリッジサイズならともかくポーカーサイズが主流だから」

「だから、よっぽどの人じゃなければ、返してもらうんだって。」

「えっ!『よっぽど』なのに!」

 

どうやって作ったのでしょう?

私の中で希少度がグングン上昇していっています。

ぜひ、実物を拝見してみたいです。できれば、作り方を伝授していただきたいものです。

 

 

 

30キロラン

 

2月の沖縄マラソンにエントリーしているにも関わらず、なかなか練習ができないでいたので、やや焦りが出始めていました。

何しろ3週間後に迫ってきています。

風邪も流行っていますし、雨の日のラン二ングは自重していたので、室内で足を動かすことぐらいしかできないでいました。

まとまった練習は日曜日にしかできないなと思っていたら、今日は絶好のランニング日和になってくれました。

(寒いのは苦手ですが、雨に降られるよりよっぽどマシです。)

いつものバイパスコースから伊祖のメガネトンネルを抜けて、コンベンション通りに降りていきました。

そのまま北上して58号線に合流してさらに北上。美浜の交差点でちょうど15キロ。

観覧車を確認して、ちょうど折り返しました。

途中で頭の中でイヤーワームがしつこく鳴り響いているのに気づきました。

(ん?なんの曲だっけ?)

しばらく考えてもわからなかったのですが、ふと答えが降りてきました。

私にとっては、あまりに意外な曲です。米津玄師さんの「Lemon」

こういうことってあるんですね。

なんとなくリズムとメロディがランニングの波長とあっていたんでしょうか。

しまいにはイヤーワームというよりも、ランニングのお供に好んで口ずさんでいました。

最後まで天気も崩れることもなく、気持ちよく走ることができました。それが今日の収穫です。

 

吉野弘「樹」

 

吉野弘さんの詩を時々読む返すことにしています。

何気ない言葉に、内省するヒントがちりばめられている気がするからです。

自分を哲学する、とっかかりとして、脳をゆさぶってもらっています。

「樹」という詩を紹介しますね。

 

 

  樹

 

人もまた、一本の樹ではなかろうか。

樹の自己主張が枝を張り出すように 人のそれも、

見えない枝を四方に張り出す。

 

身近な者同士、許し合えぬことが多いのは

枝と枝とが深く交差するからだ。

それとは知らず、いらだって身をよじり 互いに傷つき折れたりもする。

 

仕方のないことだ 枝を張らない自我なんて、ない。

しかも人は、生きるために歩き回る樹 互いに刃をまじえぬ筈がない。

枝の繁茂しすぎた山野の樹は

風の力を借りて梢を激しく打ち合わせ

密生した枝を払い落とす――と

庭師の語るのを聞いたことがある。

 

人は、どうなのだろう?

剪定鋏を私自身の内部に入れ、

小暗い自我を 刈りこんだ記憶は、

まだ、ないけれど。

 

 

 

「パンドラの匣」

 

青空文庫で太宰治の小説「パンドラの匣(はこ)」を読むことができます。

こちら → 「パンドラの匣」

「健康道場」という風変りな結核療養所で、迫り来る死におびえながらも、病気と闘い明るくせいいっぱい生きる少年と、彼を囲む善意の人々との交歓を、書簡形式を用いて描いた作品です。

新しい記憶では、2009年に映画化もされているので、観た方も多いかも知れませんね。

「パンドラの匣」とはギリシャ神話に出てくるお話。

小説には、こんな説明があります。

「あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、嫉妬、貪慾、猜疑、陰険、飢餓、憎悪など、あらゆる不吉の虫が這い出し、空を覆ってぶんぶん飛び廻り、それ以来、人間は永遠に不幸に悶えなければならなくなったが、しかし、その匣の隅に、けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話。」

「人間は不幸のどん底につき落とされ、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。それはもう、パンドラの匣以来、オリンポスの神々によって規定されている事実だ。楽観論やら悲観論やら、肩をそびやかして何やら演説して、ことさらに気勢を示している人たちを岸に残して、僕たちの新時代の船は、一足おさきにするすると進んでいく。何の渋滞もないのだ。それはまるで植物の蔓が延びるみたいに、意識を超越した天然の向日性に似ている。」

この小説の中に、看護婦さんと塾生さん(患者さん)との会話が取り上げられていますが、快活な印象があって、私が特に好きな場面です。

「ひばり。」と今も窓の外から、ここの助手さんのひとりが僕を鋭く呼ぶ。

「なんだい。」と僕は平然と答える。

「やっとるか。」

「やっとるぞ。」

「がんばれよ。」

「よし来た。」

 この問答は何だかわかるか。これはこの道場の、挨拶である。助手さんと塾生が、廊下ですれちがった時など、必ずこの挨拶を交す事にきまっているようだ。いつ頃からはじまった事か、それはわからぬけれども、まさかここの場長がとりきめたものではなかろう。助手さんたちの案出したものに違いない。ひどく快活で、そうしてちょっと男の子みたいな手剛さが、ここの看護婦さんたちに通有の気風らしい。

病を抱えた人間に対する、見事な励ましだと思います。

自らが快活であり、それを発散させることは、相手に勇気を与えます。

昔は、こういう医療者に憧れたものですが、実際には、なかなかできるものではないということも経験してきました。

けれども、そういう生命力に溢れたリズムは、医療者の理想像として、持っていたいです。

 

 

Pandora - John William Waterhouse