新型コロナウイルスの流行に伴い、世界中の企業が在宅勤務(WFH)を一気に導入しました。通勤時間の短縮や柔軟な生活リズムといった利点が注目される一方で、すべてをリモートにすると同僚との対面コミュニケーションが減り、新しいアイデアを生む「偶然の会話」や緊密なチーム連携が失われがちだという声も多くありました。例えば、休憩室での雑談から新しいプロジェクトのアイデアが生まれたり、廊下ですれ違った同僚とちょっとした相談をすることで問題解決の糸口が見つかったりすることがあります。そこで、多くの企業では「週のうち数日は出社、残りは在宅」というハイブリッド勤務に切り替えています。しかし、このハイブリッド勤務の実態がどのように創造性やイノベーションに影響するのか、まだはっきりとは分かっていません。
こうした課題に注目し、インドの大手IT企業HCLテクノロジーズにおける約4万8,000人の社員データを使って検証したのが、本研究です。HCLテクノロジーズでは、社員が業務改善や新サービスに関するアイデアを投稿できる社内システムを導入しており、社員が投稿する「アイデア提案」を量と質の両面で追跡し、オフィス勤務(WFO)・WFH・ハイブリッド勤務の3形態それぞれでどう変化するかを詳細に調べました。社内システム上で提案されるアイデアの数や採用率、クライアントからの評価といった客観的な指標を用いることで、在宅やハイブリッドがもたらすメリットやデメリットを明確に示そうとしています。
以下では、この研究からわかったWFHやハイブリッド勤務が「アイデアの量と質」に及ぼす影響を、分かりやすく解説します。ワーク・ライフ・バランスを重視する流れは今後も続くと考えられ、企業がいかに工夫してイノベーションを維持・促進していくかは大きな関心事です。そのヒントになり得る知見が、本研究のデータから示唆されています。
研究者たちは、HCLテクノロジーズの3段階の勤務形態(WFO、WFH、ハイブリッド)を通じて社員が投稿したアイデア数とその質を分析しました。結果を簡単にまとめると以下のとおりです。
WFH期のアイデア数
- 在宅勤務への移行期(WFH期)は、オフィス勤務期(WFO期)に比べてもアイデアの「数」がほとんど変わりませんでした。
- ただし、採用率やクライアントへの共有率など、アイデアの「質」に関してはWFH期の方が低い傾向がみられました。
ハイブリッド勤務期のアイデア数
- ハイブリッド勤務期になると、アイデアの質は統計的に明確な悪化は見られませんでしたが、アイデア数が顕著に減りました。
- 具体的にはWFO期に1人あたり月0.009件のアイデアが平均とされるのに対し、ハイブリッド期は0.007件に下がっています。この差は約22%の減少にあたります。
チームのバラつきが及ぼす影響
- ハイブリッド勤務期にアイデア数が減る原因として、出社日や在宅日がチーム内でそろわないほど協調が難しくなることが示唆されました。
- 出社頻度のばらつきが大きいチームほど、アイデア数の低下がいっそう大きくなるという傾向がデータから浮かび上がっています。
アイデアの質に関する詳細
- アイデアの質を「採用率」や「クライアントからの高評価」で見ると、WFH期ではWFO期に比べて下がるケースが目立ちました。
- ハイブリッド勤務期では、質について明確な低下は確認されませんでしたが、前述のように量自体が減っているため総合的なイノベーション機会も減っている可能性があります。
HCLテクノロジーズの研究結果を踏まえると、在宅勤務は集中しやすいという利点がある一方、人と直接会わない分、偶発的な発想やチームでの自然なやりとりを得にくい側面があると考えられます。また、ハイブリッド勤務では連絡手段や出社スケジュールが社員ごとに異なるため、チーム内での協調コストが増加してしまう可能性があります。オフィスにいる人同士は直接会話し、在宅の人同士はオンラインツールを使うものの、この2つのコミュニケーション手段が噛み合わず、情報伝達に齟齬が生じやすいのです。
加えて、アイデア創出には往々にして「弱い紐帯」同士のつながりが重要になるという指摘があります。普段関わりの薄い同僚や別部署との雑談・偶然の交流から、思わぬアイデアが生まれやすいという現象です。在宅やハイブリッドではこうした弱い紐帯が失われやすい、あるいはつながりが細くなりやすいのではないかと考えられます。
在宅やハイブリッド勤務には大きなメリットがある一方、イノベーションにおけるリスクが存在します。研究者たちは、オフィスに特定の曜日だけ全員が集まる仕組みや、オンラインでも雑談をしやすい環境を整備することなど、ハイブリッド勤務ならではのルールやツールを工夫すればリスクを抑えられると示唆しています。例えば、バーチャルオフィスやオンラインコミュニケーションツールを活用し、社員同士が気軽に交流できる場を設けることが考えられます。スケジュールを共有して出社日を意図的に合わせたり、オンラインコミュニケーションが単なる会議だけでなく雑談や情報交換の場にもなったりするように設計するなど、多様な方法が既に試されはじめています。
企業にとっては、人材の定着や満足度、さらに生産性やイノベーション力をどう両立させるかが今後の大きな課題です。本研究のように、客観的なデータをもとに対策の効果を検証していく取り組みが増えれば、「どのようなハイブリッド勤務形態が最適か」という疑問に対してより明確な指針が見えてくると期待されます。
今回の研究では、在宅勤務とハイブリッド勤務がアイデア創出におよぼす影響を、きわめて具体的なデータで明らかにしました。WFH期にはアイデアの数はあまり減らないのに質が下がる傾向があり、ハイブリッド期にはアイデアの数自体が顕著に減少するという結果です。とくにチーム内での出社頻度が不ぞろいなほど、アイデア数が落ち込みやすい点も浮き彫りになりました。
一方で、在宅勤務やハイブリッド勤務は多くの社員にとって生活の質向上に役立つと報告されており(Barrero et al., 2023)、企業にとっても人材確保や定着の面でメリットがあると見られます。イノベーションの側面をどう補強し、利点と課題をバランスよく両立するか。組織の柔軟性と創造性が試される段階にきているようです。今後さらに事例や実験が積み重なり、企業それぞれに適した働き方の形が明らかになっていくことが期待されます。
参考文献:
Gibbs, M., Mengel, F. & Siemroth, C. Employee innovation during office work, work from home and hybrid work. Sci Rep 14, 17117 (2024). https://doi.org/10.1038/s41598-024-67122-6
