睡眠は、ただ体を休めるためだけの時間ではありません。最近の研究では、睡眠中に脳が記憶を整理し、感情的な体験を処理していることが明らかになってきました。今回ご紹介する論文 は、睡眠中に嫌な記憶をポジティブな記憶で上書きできる可能性を示唆する、興味深い実験結果を報告しています。
記憶の書き換えと睡眠の関係
人は誰でも、過去の辛い記憶に悩まされることがあります。心理学では、このような嫌な記憶をコントロールする方法として、「抑圧」や「書き換え」などが研究されてきました。しかし、感情を伴う記憶は非常に強く、意識的に忘れようとしてもなかなかうまくいかないのが現実です。
一方、睡眠中は脳が記憶を整理する時間帯であることが知られています。近年注目されているのは、「ターゲット・メモリー・リアクティベーション(TMR)」と呼ばれる手法です。これは、学習したときの手がかり(例えば、特定の音声など)を睡眠中に再び提示することで、特定の記憶を意図的に再活性化させるという方法です。今回の研究では、このTMRを用いて、嫌な記憶にポジティブなイメージを結びつけ、睡眠中にそのイメージを再活性化させることで、記憶の書き換えを試みています。
実験方法:嫌な記憶とポジティブな記憶の干渉
この実験では、まず被験者に48個の無意味な単語と、それぞれに対応する不快な画像を学習させました (Day1)。翌朝、単語を手がかりとしたテストを行い、記憶の定着度を確認しました。さらに2日目の夜には、48個の単語のうち半分 (24個) に、今度はポジティブな画像を結びつけました。
例えば、「リンゴ」という単語に、最初は事故の画像を、後から可愛い子犬の画像を結びつける、といった具合です。このようにすることで、24個の単語については「不快な記憶」と「ポジティブな記憶」が重なり合った状態、つまり“干渉”状態を作り出しました。
そして、被験者がノンレム睡眠(深い眠り)に入っている間に、対象となる単語の音声を計36個(干渉あり12個、干渉なし12個、全く新しい擬似単語12個)再生しました。音量は約38dBと非常に小さく、眠りを妨げないように配慮されています。
実験結果:ポジティブな記憶が優勢に
翌朝 (Day3) と数日後 (Day5) に被験者にテストを行った結果、以下の興味深い変化が見られました。
* 嫌な記憶の抑制: ポジティブ画像と関連づけた単語を睡眠中に再生した場合、元々の不快な画像を思い出す割合が低下しました。
* ポジティブな記憶の想起: 嫌な画像を思い出そうとしても、代わりにポジティブな画像が頭に浮かぶことが増えました。
* 感情評価の変化: ポジティブな感情を判断するスピードが速くなりました。
これらの結果は、睡眠中にポジティブな記憶を再活性化することで、嫌な記憶を弱めることができる可能性を示唆しています。
脳波による分析:θ帯域の活動が鍵
脳波の測定結果も、この仮説を支持するものでした。TMRの音刺激に伴い、θ帯域 (4〜8Hz)と呼ばれる脳波の活動が上昇していました。このθ帯域の活動は、「ポジティブ記憶を優先的に呼び起こす」ことと関連していると考えられています。
結論:睡眠と記憶の新たな可能性
今回の研究は、嫌な記憶を直接消去するのではなく、「後から付け足したポジティブなイメージ」を睡眠中に再活性化するという、新しいアプローチの可能性を示しました。これは実験室レベルでの成果ですが、将来的には、心的外傷後ストレス障害 (PTSD) などの治療にも応用できる可能性を秘めています。
もちろん、実際のトラウマ体験を扱うには、より長期的かつ現実に即した手続きが必要となります。また、今回の実験では単語と画像を用いましたが、日常生活における記憶ははるかに複雑です。
それでも、嫌な記憶を完全に消去できなくても、ポジティブな側面で上書きすることで、心の負担を軽減できる可能性があります。今回の研究は、睡眠と記憶、そして感情の複雑な関係に新たな光を当て、今後の研究に大きな期待を抱かせるものです。
参考文献:
Xia T, Chen D, Zeng S, et al. Aversive memories can be weakened during human sleep via the reactivation of positive interfering memories. Proc Natl Acad Sci U S A. 2024;121(31):e2400678121. doi:10.1073/pnas.2400678121