「虎を馴らす法」

 

寓話は、読み手が自由に思いを巡らすことができるという点で、考えるための材料を与えてくれるものです。

そこで教訓とするかどうかは読み手次第。何かが伝わったとしたら、その何かはそのお話の核であったのでしょう。

その核を古(いにしえ)から運んできたのがお話です。伝搬手段としてお話が最適だったのは、この壮大な時間を生き延びてきた事実だけでも明らかです。

さて、荘子の雑篇には、荘子の思想を具体的な事例や比喩で説明したお話がたくさんあり、それを一つひとつ読むだけでも面白いです。

例えば、人間世篇の「虎を馴らす法」では、カマキリや虎飼いの話を例にあげながら、自分と相手の性情をよく観察しながら対処することの大切さを説いています。

 

こんなお話です。

 

魯の賢人顔闔(がんこう)は、衛の霊公の太子蒯聵(かいかい)の教育係に召し出される際、衛の大夫蘧伯玉(きょはくぎょく)を訪ねました。

顔闔は言いました。「私はある人の教育を任されました。相手というのは、手のつけようもない酷薄な性情の持ち主で、他人の過ちは何ひとつ見逃さないのに、自分はどんな悪行を重ねても良いと思っているのです。彼を放っておいては、国を滅ぼすもととなります。しかし、無理に教育しようとすれば、私が殺される羽目に陥るでしょう。私はどう対処すべきでしょうか。」

蘧伯玉は答えました。「なかなか興味深い質問ですね。まずはひたすら行いを慎み、過ちを犯さないように努めましょう。その上で、彼に従順にふるまいながら、彼との融和を図ると良いでしょう。

しかし、ここに落とし穴があります。従順にふるまっていると、ともすれば彼の悪行に引きずり込まれ、融和を図ろうとすると、ともすれば感化しようとの意図が明らかになります。彼の悪行に引き込まれれば、自分の身を滅ぼすことになり、彼を感化しようとの意図が明らかになれば、たちまち災いが降りかかります。

彼が幼児のように振舞えば、ともに幼児のように振舞いましょう。彼が放埒に振舞えば、ともに放埒に振舞い、彼が無謀な振舞いをすれば、ともに無謀に振舞うのが良いでしょう。どこまでも従順に振舞いながら、自分の徳で彼を包み、彼を自分に同化させるのです。

カマキリの例を挙げましょう。カマキリは、他のものが近づくと、たとえそれが戦車でも、鎌を振り上げて立ち向かっていきます。しょせんかなわぬ癖に、自分の能力に溺れきっているのです。自分の能力に溺れて、太子に強意見などしようものなら、カマキリと同じ運命をたどらなければなりません。十分慎みましょう。

もうひとつ、虎飼いの例を挙げましょう。虎飼いは、決して虎に生きた餌を与えません。餌を殺そうとして、虎が殺気立つからです。また、決して虎に丸ごとの餌を与えません。餌を食い破ろうとして、虎が殺気立つからです。虎飼いは、虎の食欲に応じて餌を加減しながら、いつしか虎の激しい殺気を和らげてしまいます。そしてついには、獰猛な虎を完全に手なずけてしまうのです。虎の性情に従うからこそ、それができるのです。それとは逆に、虎に食い殺されるのは、虎の性情に逆らう者に決まっています。

とかく馬好きは、馬可愛さが昂じると、自分の貴重な食器を馬の糞尿受けに使うほどになります。これほど大事に育てて言っても、虻が止まったからといって、いきなりぴしゃりとたたけば、馬は轡をかみ切って狂奔し、ついには大怪我をさせられてしまいます。情が仇に変わるのです。この轍を踏まぬよう、あなたも十分留意してください。」

 

 

このお話は、人によっては、人間関係についてのヒントを与えてくれるかも知れません。