坂口安吾「日本文化私観」

 

坂口安吾は青空文庫に彼の作品がずらっと並ぶほど、今でもファンが多い作家です。

私も「夜長姫と耳男」や「不連続殺人事件」などが好きで、暇を見つけては他の作品も読み漁ってます。

彼のエッセイ「日本文化私観」は短いですが、日本的というのを考え直してみようという彼の考えをまとめたものです。

このエッセイは、太平洋戦争下の1942年に雑誌「現代文学」に掲載されたもので、伝統や国民性という概念に疑問を投げかけ、非伝統的な建築や技術を讃え、俗悪なものにも美を見出そうとする姿勢が印象的です。

例えば、ナチスから逃れて日本に来たタウトという著名な建築家がいました。桂離宮や伊勢神宮などの伝統的な建築を礼賛し、日本文化私観という著作も出すほど日本文化に造詣の深い人物です。

しかし、坂口安吾は「タウトによれば日本に於ける最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生れ、彼の蔑み嫌うところの上野から銀座への街、ネオン・サインを僕は愛す」と真っ向から対立します。

また、彼は「美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない」と言って、小菅刑務所やドライアイスの工場、駆逐艦などを取り上げます。これらの美は、実質的な目的や機能から生まれたもので、法隆寺や平等院といった古典的な美とは異なる美しさがあると称賛しているのです。

痛快なのは次の文章です。

「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい」「必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ」

つまり、無意識の生活に根ざした実質性から生まれる文化的価値としての真の美を強調します。

日本の古い伝統や文化に対して、実質や必要性に基づく美を主張し、時代の変化を肯定するというのが彼の一貫した主張です。

作家のエッセイは(村上春樹さんもそうですが)あっさり、はっきりしていて読んでいて気持ちが良いです。