「薪は薪、灰は灰」

 

 

道元の「正法眼蔵」を禅の指南書としてではなく、哲学書として読むとそれほど難解ではなくなると教えてくれたのは、ひろさちやさんでした。(「100分de名著」ブックス 道元 わからないことがわかるということが悟り)

その言葉をヒントとして読んでいくと、確かに(完全に理解しているとはいえないまでも)心に響くものがあります。

例えば「第一 現成公案」の(0九)に、こんな一節があります。

 

たき木、はひ(い)となる、さらにかへ(え)りてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。

しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。

  

(現代語訳)

薪は灰になったなら、ふたたび薪となることはありえない。この事情を灰はのちで薪はさきだと理解してはいけない。

知っていなければならないことは、薪は薪としての現象であって、さきがありのちがある。前後があったとしても、その前後はきれていて現在のままである。灰は灰としての現象であって、これもまた、のちがありさきがある。

 

中野孝次著「道元断章」に道元の死生観が述べられていますが、それがこの一節の意訳として成り立つのではないかと思いました。

 

生のときはただ生、死のときはただ死、それ以外に何もない。だから、生のときは全力でただ生に仕えよ、余計なことを考えて他を案じるな。死のときはただ全力をもって死に仕えよ。それが生きるということであり、死ぬということである。生と死は因果関係で結ばれたものではない。

 

特に最後の「生と死は因果関係で結ばれたものではない」という言葉を突きつけられて、衝撃を覚えました。

あくまでも「薪は薪、灰は灰」なんですよね。

それを忘れて、余計なことで不安を感じたりするのも、そんな必要はないことを気付かされるのです。