詩「行方不明の時間」

 

 

茨木のり子さんの詩を無性に読みたくなる時があります。

「自分の感受性くらい」「言いたくない言葉」「倚りかからず」などの詩は、何度も目を通しているつもりですが、その度に感じるものが違っているように思います。

もちろん、それは私の変化なのでしょうが、それを感じるのもまたわくわくするのです。

今日は、「茨木のり子詩集」の中の「行方不明の時間」に深く共感していました。

 

 

行方不明の時間

 

 人間には

 行方不明の時間が必要です

 なぜかはわからないけれど

 そんなふうに囁くものがあるのです

 

 三十分であれ 一時間であれ

 ポワンと一人

 なにものからも離れて

 うたたねにしろ

 瞑想にしろ

 不埒なことをいたすにしろ

 

 遠野物語の寒戸の婆のような

 ながい不明は困るけれど

 ふっと自分の存在を掻き消す時間は必要です

 所在 所業 時間帯

 日々アリバイを作るいわれもないのに

 着信音が鳴れば

 ただちに携帯を取る

 

 道を歩いているときも

 バスや電車の中でさえ

 <すぐに戻れ>や<今 どこ?>に

 答えるために

 

 遭難のとき助かる率は高いだろうが

 電池が切れていたり圏外であったりすれば

 絶望はさらに深まるだろう

 シャツ一枚 打ち振るよりも

 

 私は家に居てさえ

 ときどき行方不明になる

 ベルが鳴っても出ない

 電話が鳴っても出ない

 今は居ないのです

 

 目には見えないけれど

 この世のいたる所に

 透明な回転ドアが設置されている

 無気味でもあり 素敵でもある 回転ドア

 うっかり押したり

 あるいは

 

 不意に吸いこまれたり

 一回転すれば あっという間に

 あの世へとさまよい出るしかけ

 さすれば

 もはや完全なる行方不明

 残された一つの愉しみでもあって

 その折は

 あらゆる約束ごとも

 すべては

 チャラよ

 

 

さらに一歩進んで、秘密基地を持ちたいなどと言い出したら、それこそ中二病をひきずるオヤジ殿の戯言になってしまいます。

「行方不明」ぐらいがちょうどいいですね。