「どこか悲しい音がする」

 

 

いつも青空文庫に感謝しています。

例えば、今日は夏目漱石「吾輩は猫である」をKindleに落としてパラパラと読み返していました。

青空文庫ですから、もちろん無料で読めます。

 

「吾輩は猫である」は言わずと知れた夏目漱石のデビュー作です。「ホトトギス」で短編として発表されたのが、好評だったため連載のような形になったのだそうです。それが全部で11話となりました。

最終話では、苦沙弥先生の家で迷亭と独仙が囲碁をうつところから始まります。寒月や東風などといった常連メンバーも加わって、いつものようによもやま話に花が咲きます。

そして、このお話のラストへと続くのです。

 

「短かい秋の日はようやく暮れて、巻煙草の死骸が算を乱す火鉢のなかを見れば火はとくの昔に消えている。さすが呑気の連中も少しく興が尽きたと見えて、「大分遅くなった。もう帰ろうか」とまず独仙君が立ち上がる。つづいて「僕も帰る」と口々に玄関に出る。寄席がはねたあとのように座敷は淋しくなった。

 主人は夕飯をすまして書斎に入る。妻君は肌寒の襦袢の襟をかき合せて、洗い晒しの不断着を縫う。小供は枕を並べて寝る。下女は湯に行った。

 呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」

 

語り手である吾輩(=猫)が、人間の愛おしいばかりの切なさや侘しさを悟ってしまったかのような瞬間です。私はここにあるこの言葉が好きです。

「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」

その後、吾輩は人間の真似をして彼らが残したビールを飲み干し、酩酊状態となって足を滑らせて水瓶に落ちてしまいます。そして、やがて観念して静かに死を受け入れるのでした。

最後の文章です。

 

「吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」