はじめての「禅問答」~自分を打ち破るために読め!~ 山田史生著
著書にならって「禅問答」を辞書で引いてみるとこうあります。
ぜん-もんどう【禅問答】〔名〕禅の代表的な修行法の一つで、修行者が疑問を問い、師家がこれに答えるもの。また、わかったようなわからないようなやりとりや、かみあわない問答などにたとえていう。
この本では草分け的存在である「馬祖」の語録を取り上げ、詳しく解説してくれています。
「禅問答」を取り扱っていますから、その解釈のありようは無数に存在するものです。作者もそれを素直に認めていて、断定はせずに「私は少なくともこう思いたい」と提案の域にとどまっています。
馬祖の「むちゃぶり」に弟子としてどう答えるのが禅の道として正しいのか?そもそも正しいという基準はあるのか?
他の高名な禅師と同様に、馬祖禅師も歯に衣着せぬ激しい気性の方だったらしく、語録には「たわけ!」「ボンクラ!」などという激しい言葉が並びます。弟子も緊張の連続だったことでしょう。
例えば、禅問答のうちの短い例をあげてみます。
龐居士(ほうこじ)が馬祖にたずねる。
「一切の存在とかかわりをもたないものとは、どういう人間でしょうか」
「おまえが西江の水を一口で飲みきったら、そいつを教えてやろう」
さて、これをどう解釈するのでしょう。
一切のかかわりをもたずに生きるなんて、不可能です。ありえません。
筆者は、一切の関わりをもたないとは、その一切を内側に宿しているものなのだと言います。必要なものを内にのみこんでいるからこそ関わりを持たずに生きることができるのだと。
そして、パスカルの「考える葦」の喩えを足がかりに、人の意識や思考は、全てをその内にのみこめるのだとしました。
けれども、カントが述べた「主観そのものは客観のすべてをのみこむが、主観は客観とは客観的な関係性ではない」と、その矛盾を指摘しています。
それでは、いったい意識とはなんだろうという根本の問題に戻ってしまいました。
そのうえで、馬祖の「ありえないことが起こったら教えてやろう」と言った真意を読み解こうとします。
他者とかかわりを持たない、一切をのみつくしたものがあったとして、お前さん、そういうのが理想だとでも思っているのかい?
これは、どういう生き方を選ぶのかという禅の基本姿勢が表れた問答なのだと思いました。
師の「むちゃぶり」にどう答えるか?
昔の弟子たちは、かなり緊迫した修行の毎日だったに違いありません。