仏教では「心はニュートラルであることが基本である」と言います。
けれども、このニュートラルという概念はわりと誤解を受けやすいようです。
アリストテレスが「メソーテス」とも表現し、後世の人間が論語の「中庸」という言葉を当てたこともあって、よけいに理解が難しくなった感もあります。
真ん中をとった「ちょうど良いバランス」というのではありません。
人の感情のとらえ方のヒントがつまった言葉です。
ニュートラルを中心にして、人の心の両端は「快・不快」が位置しています。
「不快」ならともかく、「快」なら良いじゃないかとも思われるでしょうが、現実はというと「快を求めるがゆえに不満にあふれ、不快を避けるために実際は怒りに満ちる」というパターンを繰り返しています。
「快」は、欲を満たそうとするあまり暴走してしまうものです。あるいは、すでに満足しきってしまって眼前の問題に着手しようとしないものです。
「不快」は「怒り」や「悲しみ」「苦しみ」など、思いつく限りのネガティブな感情のいろいろです。
つまり、「快・不快」は、できごとやものを前にして人が反応する「感じ」や「受けとめ」です。
ひとつ一つのできごとやものに対して、「快・不快」のラベリングをしているようなものです。
人の1日は、反応し続ける作業の連続と言っても良いでしょう。
反応が、快・不快の二者択一しかなければ、私たちはずっと極端から極端へ、感情を揺さぶられ続けていくしかありません。
ニュートラルな心というのは、その反応をなくし、ありのままを理解することを準備した心です。
考えただけでも、かなり難しいです。
坐禅の時でさえ自分の心がままならないのに、それをon the jobでやろうというのですから、難しいのは当たり前です。
ティク・ナット・ハンが唱えるマインドフルネスは、ニュートラルな心を準備する練習なんだと思います。