のんき

 

明治を代表する小説家 夏目漱石は俳人の正岡子規と親友であったと知られています。

同じ1867年生まれで、東大予備門の頃に出会い、同じ落語好きということもあって意気投合したそうです。

夏目漱石が「正岡子規」というタイトルで、随想を書いています。子規のリーダーとしての人柄を頼もしく思っているのがわかりますし、とても親しかったのだということが行間からもにじみ出てくる文章です。

青空文庫で読めます。(リンクを貼っておきます。)→ 「正岡子規」

 

さて、その夏目漱石が、俳句についての持論を述べた作品があります。「草枕」です。

これが、とても参考になることが多く、なるほどと感心しました。

少し長いですが、抜き出してみます。

 

(ここから)

こんな時にどうすれば詩的な立脚地(りっきゃくち)に帰れるかと云えば、おのれの感じ、そのものを、おのが前に据(す)えつけて、その感じから一歩退(しりぞ)いて有体(ありてい)に落ちついて、他人らしくこれを検査する余地さえ作ればいいのである。

詩人とは自分の屍骸(しがい)を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。

その方便は色々あるが一番手近(てぢか)なのは何(なん)でも蚊(か)でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。

十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、厠(かわや)に上(のぼ)った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。

十七字が容易に出来ると云う意味は安直(あんちょく)に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の悟(さと)りであるから軽便だと云って侮蔑(ぶべつ)する必要はない。軽便であればあるほど功徳(くどく)になるからかえって尊重すべきものと思う。

まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人ひとりが同時に働けるものではない。

ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否(いな)やうれしくなる。涙を十七字に纏(まと)めた時には、苦しみの涙は自分から遊離(ゆうり)して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉(うれ)しさだけの自分になる。

(ここまで)

 

「草枕」では、その後に画工が俳句を作り上げる過程が描かれています。

「『花の影、女の影の朧(おぼろ)かな』とやったが、これは季が重なっている。しかし何でも構わない、気が落ちついて呑気(のんき)になればいい。」

そして、続けて一挙に7つの句を書きつけます。

このあたりの感じが非常に良いのです。うまく詠もうと肩に力が入りすぎていないところがかっこいいのです。

「のんき」

私もこの言葉が気に入りました。

出来の良し悪しではなく、当分はこれでいきたいと思いました。

 

もちろん、「草枕」も青空文庫で全文を読むことができますので、リンクを貼っておきますね。

青空文庫「草枕」