「歳時記」を読み直す

 

最近、「歳時記」を読むようになりました。

歳時記とは、ご存知の通り「俳句の季語を集めて分類し、解説した本」です。季語は、多くの歳時記で「時候」「天文」「地理」「人事」「生活」「行事」「忌日」「動物」「植物」に分類されています。

それら多くの言葉を集めて、解説し、その季語をつかった俳句が後ろの方に載っている、というのが歳時記の典型的なパターンです。

 

たとえば、春の季語の「長閑(のどか)」。

春風駘蕩。春の一日の穏やかで長くのんびりとしたさま。東洋の伝統的な季節感覚。

 

古寺の古文書もなく長閑なり 高浜虚子

さびしさや撞けばのどかな鐘の音 矢島渚男

 

沖縄の気候は本土の季節のうつりかわりとは違いますし、季節感覚も違っていて当然だと思うのですが、それでもわかる気はします。

それは、例句から受ける感覚をヒントにしているからです。

日本人が大切にしてきた季節感というものを、それを表現する言葉とともに学び直したくなったのです。

さらに、物理学者 寺田寅彦氏の「歳時記新註」などを読むと、ルナールの「博物誌」を彷彿とさせることに感心します。

歳時記をヒントに、季節を感じ、テーマを掘り下げ、想像力を働かせる訓練になればとも思いました。

 

歳時記を読んだからと言って、それで俳句が詠めるようになるわけではありませんが、そうそう、高浜虚子が「俳句への道」でこんなことを言っています。

「総じて自然現象(花鳥)はわれわれの生活にゆとりを与える。これは否めない事実だ。それで苦しい極み、貧しい極み、生活を否定しようとするような場合、世の中に絶望したような場合、深刻な悲痛な情緒を訴えようとする場合にでも、天然現象(花鳥)に心を留めるとたちまちゆとりができる。少なくとも諷詠しようとする人の心にはゆとりができる。」

こんなご時世ですから、何か心に留めるものが必要な気がしています。