映画「セッション」

 

映画「セッション」を観ました。(原題は「Whiplash」)

「どんでん返し」好きな私は、予告編の「ラスト9分19秒 ― あなたは映画史が塗り替えられる瞬間を目撃する」に釣られたものです。

確かに「どんでん返し」は起こったものの、それが全てを解決させたかというとそうでもないラストに、おさまりのつかない余韻が残りました。

公式サイトからひろってきたあらすじはこうです。

 

名門音楽大学に入学したニーマン(マイルズ・テラー)はフレッチャー(J・K・シモンズ)のバンドにスカウトされる。

ここで成功すれば偉大な音楽家になるという野心は叶ったも同然。

だが、待ち受けていたのは、天才を生み出すことに取りつかれたフレッチャーの常人には理解できない〈完璧〉を求める狂気のレッスンだった。浴びせられる罵声、仕掛けられる罠…。ニーマンの精神はじりじりと追い詰められていく。

恋人、家族、人生さえも投げ打ち、フレッチャーが目指す極みへと這い上がろうともがくニーマン。しかし…。

 

正直に言うと、この紹介文にある「狂気のレッスン」は、今の世の中では許されない次元のものでした。

2014年の作品です。(日本では2015年に公開)

パワハラやアカハラに対する意識がこの5、6年で急激に変化したものとは思えませんが、フレッチャーのような教授が存在すること自体が今の視点からすると常軌を逸脱した感じもしました。

映画監督が描こうとしたテーマとは違うのでしょうが、どうしても映像表現で目立つ分だけ「天才は過酷な練習によって生み出されるものなのか?」とか、「心身ともに追い詰める指導は必要なのか?」ということに目を奪われてしまうのです。

芸術の道は厳しいというのは分野違いで凡人の私でも何となく知っています。大江千里さんの「9番目の音を探して」などの自伝的エッセイでも、才能がある若い人が挫折していく姿が描かれていました。

それでも、最後まで一気に観てしまったのは、この映画にリアリティを感じてしまったからでしょうか。つまり、私が根性論を過ごした昭和の人間だからでしょうか。

その意味でも、観る人を選ぶ映画かも知れません。ニーマンと同じような経験をした人はトラウマを呼び起こしてしまうかも知れません。

ラストの展開次第では、スリラー映画になっていたかも知れないと思いました。