室町時代の浄土真宗の僧、蓮如の言葉です。(「蓮如上人御一代記聞書」より)
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おなじく仰せにいはく、心得たと思ふは心得ぬなり。心得ぬと思ふは心得たるなり。弥陀の御たすけあるべきことのたふとさよと思ふが、心得たるなり。少しも心得たると思ふことはあるまじきことなりと仰せられ候ふ。されば『口伝鈔』にいはく、「さればこの機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのらんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや」といへり。
現代語訳にすれば、こんな意味になります。
蓮如上人は、 「ご法義をよく心得ていると思っているものは、 実は何も心得ていないのである。
反対に、 何も心得ていないと思っているものは、 よく心得ているのである。
弥陀がお救いくださることを尊いことだとそのまま受け取るのが、 よく心得ているということなのである。
物知り顔をして、 自分はご法義をよく心得ているなどと思うことが少しもあってはならない」 と仰せになりました。
ですから、 口伝鈔には、 「わたしたちの上に届いている弥陀の智慧のはたらきにおまかせする以外、 凡夫がどうして往生という利益を得ることができようか」 と示されているのです。
もっと簡単に言えば、「わかったというのは、実はわかっていないことだ。よくわからないという人の方が本当はわかっているものである。」
「わかったつもりでわかっていない」というのは、私たちがよく経験することで、日常でも戒めなければならないことのひとつです。
親しい仲だから、家族だから、身内だから、わかったつもりで互いの心のうちをよく話さないままに、すすめてしまっていたことはありませんか?
法義だけでなく、近しい人間関係にこそ、この言葉をかみしめる必要があります。