詩「喪のある景色」

山之口貘さんの詩はどれも面白く、獏さんが詩を編み出したその時の表情や心情を思い浮かべながら読みます。

 

詩を構成する言葉の裏側にきっと何かを潜ませているだろうという思い込みがあって、「沖縄の人」という前提も、おおいに関連しています。

 

「沖縄の人」という共通のアイデンティティーは、単に風土や歴史・文化の共有だけではありません。

 

たとえば遠い親戚の人を思うような、同志的なつながりを感じます。

 

同じ経験などしたことがなくても、同じ原風景を過ごした共鳴のようなものだと思います。

 

たとえば次の詩「喪のある景色」は、途中まで他の詩人が書いてもよさそうですが、最後の1行はやはり獏さんにしか書けません。

 

沖縄の人が書いているからこそ、「喪のある景色」になるのだと思います。

 

 

 

喪のある景色

 

 

うしろを振りむくと

親である

親のうしろがその親である

その親のそのまたうしろがまたその親の親であるといふやうに

親の親の親ばつかりが

むかしの奧へとつづいてゐる

まへを見ると

まへは子である

子のまへはその子である

その子のそのまたまへはそのまた子の子であるといふやうに

子の子の子の子の子ばつかりが

空の彼方へ消えいるやうに

未來の涯へとつづいてゐる

こんな景色のなかに

神のバトンが落ちてゐる

血に染まつた地球が落ちてゐる