心や感情を操作しようとしても、よっぽどの達人でない限りは、自分の心であっても思い通りにならないのが人間です。
身体の感覚を詳しく観察していくヴィパッサナー瞑想の実践では、初心者はまず呼吸ごとに「膨らみ、縮み」を観察していくことから始めます。
マハーシ式だと、瞑想中に心がさまよい始めると、それに気づいたら速やかに「行く、行く、行く」と念じるようにします。心がさまよいをやめると、また「膨らみ、縮み」に戻ります。
「幸福論」のアランも同じようなことを言っています。
アランは「悲しみは心の問題ではなく、身体の問題である」と割り切ってしまえと提案しています。
悲しみは、実は赤血球の数の問題だとわかれば、話は早い。いらぬことに思いをめぐらすことをやめよう。悲しみは心の問題ではなく、身体の問題と考えるのだ。そうすればもう疲れや病気と同じことで、ちっとも複雑なことではなくなる。
裏切られた痛みにくらべれば、胃の痛みをがまんするほうがまだましである。同じように、「本当の友だちが少ない」というより、「赤血球の数が少ない」というほうがよくないだろうか?
感情にとらわれやすい人は、気を楽にすることも、真相を理解することもはねつける。でもわたしがいま言ったように考えれば、同時にこの両方の解決策につながるはずである。
アランの幸福論の根底には、人一倍のユーモアが溢れています。まじめにとらえるよりも、ユーモアとして微笑みながら読んでいくのが正解でしょう。
仏教やアランに限らず、感情の問題を身体の問題に転化させたり、問題を客体化させるというのは、多くの先達が提案してきたことですね。
アランはこんなことも言っています。
「病気のまねごとではなく、健康のまねごとをする」
多くの方が「健康のまねごと」をしてほしいですね。