利他的な行為

ヒトは利他的な生き物だと思います。

 

利己的な生き物だと主張する意見もありますが、目の前に困っている人がいれば(それが知り合いであればなおさら)無視することの方がむしろ苦痛でさえあります。

 

けれども、よく言われるのが、顔の見えない他者に対して利他的な行動が自然な形で導きだされることは難しいものです。

 

利他的であるためには、その人の困った状況に共感し、それが続けばもっと困るだろうという想像力が必要です。

 

顔が見えるとは、相手に共感するのが容易いということですし、想像力もはたらきやすくなります。そこで手を差し伸べて、困った状況を打ち破る手助けが可能になります。

 

私たちは自分がそうであるように、その「手助け」を相手にも自然と期待しているものです。例えば、知らない土地に出かける時、無意識に「道に迷ったら現地で尋ねればよい」と思っています。そして、実際に援助はされることが多いです。

 

しかし、見えない相手には利他的な性質は影をひそめてしまいます。例えば、地理的に遠い他者に対しては、見えないのと同じで関心が薄いものです。

 

利他的であるには「今、そこにいる。顔が見える」という条件が、ある程度必要なんですね。

 

けれども、私は例外があることを知っています。

 

それは、ワクチン接種について。

 

私はワクチン接種を受けるとは、個人の免疫獲得でありながら、極めて利他的で愛に満ちた行為だと思っています。

 

それは、「未来の他者」に対する配慮に他ならないからです。「未来の他者」は今、そこに存在しませんし、見えません。

 

ワクチン接種を選択するとは、見えない他者へ利他性が発揮される行為そのものです。

 

自分が接種することで、未来に接触する誰かを救うことになる。仮にうつされても重症化しなければ、相手の気を安めることにつながる。

 

気障ですが、本当に思っているので繰り返します。

 

ワクチン接種は、愛に満ちた行為だと思います。

 

ですから、私は集団接種会場などで大勢の若い人たちの姿を見ると、「ありがとう」と、感謝の気持ちが自然と湧いてくるのです。