「ある会話」

 

アルゼンチン出身の詩人、ボルヘスの詩集「創造者」の中に収められている「ある会話についての会話」という詩は、深く共感している自分を発見してしまいます。

 

  ある会話についての会話

J.L.ボルヘス

A―「わたしたちは不死についての議論に熱中して、夜になったというのに、灯を点けることさえ忘れていた。互いの顔がよく見えなかった。熱っぽい口調よりも説得力のある淡々とした穏やかな声で、マセドニオ・フェルナンデスは、霊魂は不滅である、とくり返していた。彼の主張は、肉体の死はおよそ取るに足らぬことであり、死こそは人間の身に起こりうる最も無意味な出来事にちがいないということだった。わたしはマセドニオのナイフを開いたり閉じたり、おもちゃにしていた。近所からアコーデオンの奏でる「ラ・クンパルシータ」が、だらだらと、きりもなく聞こえていた。古いものだというでたらめな話を信じて、今でも多くの人間がこの深刻ぶったくだらない歌を好んで聞くらしいが……わたしはマセドニオに、いっそ自殺でもするか、議論のじゃまが入らなくていい、と持ちかけた……」

Z―(からかうように)「でも結局、決心がつかなかったというわけだ」

A―(いかにも秘密めかして)「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」

 

実はすでにAは死者だった…ということにすれば、ちょっとしたミステリー調の小文になるのでしょうが、そうではなく私は素直に「そういうこともあるかもなあ」と思ってしまったのです。

瞑想の研修のときに、「死んだマネをしてみてください」「呼吸以外は体を動かさずに死体を演じてください」と言われたことがあります。

そして、「生きている人と死んでいる人の違いは何ですか?」とも言われました。

「体を触らずに、例えば5メートルほど離れた場所から、(死体を演じている)生きている人と死んでいる人の区別がつきますか?」

今まで考えたこともなかったことです。

倒れた人を見つけたら、そばにかけより、大声で声かけをして、脈拍を確認するのが常識的な行動だと叩き込まれているからです。

「生死の区別は…思考しているかそうでないか」

その人の思考の有無は、外観からでは判断できません。同様に五感が機能しているかどうかも判別できません。

「心電図モニターや脳波が平坦になる」

ルールは触れてはいけませんし、検査機器を取り付けてもいけません。

このルール上では、生死の区別は誰も判断しようがないのですね。

身体に生命を宿し、生き続けるということは、奇跡の連続のような気もします。

ボルヘスの詩を読みながら、「生と死」とりわけ人の身体の神秘さについて思いを寄せていました。

 

 

 

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