小説「愚行録」

 

小説「愚行録」を読みました。

 

あらすじを紹介します。

エリートサラリーマン家庭であった田向一家惨殺事件から1年経ち、事件は犯人が見つからないまま迷宮入りしていた。その時、ある記者が、田向夫妻の同僚や学生時代の同級生、元恋人などに、夫妻との思い出や人柄についてインタビューして回る。

 

 愚行録 貫井徳郎著

 

 

ある記者が、事件に関わりのある人物へのインタビュー形式で小説は進んでいきます。

 

複数の人間の一人語りの形をとっていますから、事件そのものや殺された一家への思いが、その人の都合のいい解釈で語られていきます。

 

ある者は純粋に野次馬的な興味を示していましたし、ある者は過去にあった交際の時期に抱いていた嫉妬心や対抗心を隠そうとしませんでした。

 

ある者はうらやみ、ある者は同情し、共感を示していました。

 

差別意識、偏見、裏切り…。その口から語られたのは「愚行録」そのものでした。

 

 

 

一人称ということは、ある固定カメラで物事を追っかけているようなものです。

 

ここではこういうふうに見えていた。別カメラでしっかり写っていたものが見えていなかったりします。

 

そして、もちろん逆もあります。

 

 

 

別方向を向いているそれぞれの固定カメラをひとつずつ集めて全体を把握しようとする試み…。

 

この記者のしようとしていることは、それなのだろうと思っていました。

 

インタビューを繰り返していくうちに、事件の全容が解明され、犯行の動機も明らかにされていく。

 

けれども、やはりそうはいきませんでした。

 

「やはり」と言ったのは、この小説の作者は、以前にこのブログで紹介した「慟哭」の貫井徳郎さんだからです。

 

最後の章のある人物のたった一言が、物語に静かに潜んでいた「毒棘」を表に浮かび上がらせてしまいました。

 

 

 

章ごとに交互に語られていくサイドストーリーがメインとつながるときに衝撃が走ります。

 

この手法は「慟哭」と同じでしたが、やはり「う~ん」と唸ってしまいました。

 

考えてみれば、人は誰しもいくつかのストーリーを同時並行で生きていて、語る時になって初めて便宜上「メイン」としているところがありますね。

 

サイドストーリーがその人にとって重要な意味を持つことが多くある気がします。

 

本来「メイン」と「サイド」と区別できないものなのでしょう。

 

 

 

この小説は映画化もされたそうですね。

 

観てみたいと思いました。

 

 

 

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