「パンドラの匣」

 

青空文庫で太宰治の小説「パンドラの匣(はこ)」を読むことができます。

こちら → 「パンドラの匣」

「健康道場」という風変りな結核療養所で、迫り来る死におびえながらも、病気と闘い明るくせいいっぱい生きる少年と、彼を囲む善意の人々との交歓を、書簡形式を用いて描いた作品です。

新しい記憶では、2009年に映画化もされているので、観た方も多いかも知れませんね。

「パンドラの匣」とはギリシャ神話に出てくるお話。

小説には、こんな説明があります。

「あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、嫉妬、貪慾、猜疑、陰険、飢餓、憎悪など、あらゆる不吉の虫が這い出し、空を覆ってぶんぶん飛び廻り、それ以来、人間は永遠に不幸に悶えなければならなくなったが、しかし、その匣の隅に、けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話。」

「人間は不幸のどん底につき落とされ、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。それはもう、パンドラの匣以来、オリンポスの神々によって規定されている事実だ。楽観論やら悲観論やら、肩をそびやかして何やら演説して、ことさらに気勢を示している人たちを岸に残して、僕たちの新時代の船は、一足おさきにするすると進んでいく。何の渋滞もないのだ。それはまるで植物の蔓が延びるみたいに、意識を超越した天然の向日性に似ている。」

この小説の中に、看護婦さんと塾生さん(患者さん)との会話が取り上げられていますが、快活な印象があって、私が特に好きな場面です。

「ひばり。」と今も窓の外から、ここの助手さんのひとりが僕を鋭く呼ぶ。

「なんだい。」と僕は平然と答える。

「やっとるか。」

「やっとるぞ。」

「がんばれよ。」

「よし来た。」

 この問答は何だかわかるか。これはこの道場の、挨拶である。助手さんと塾生が、廊下ですれちがった時など、必ずこの挨拶を交す事にきまっているようだ。いつ頃からはじまった事か、それはわからぬけれども、まさかここの場長がとりきめたものではなかろう。助手さんたちの案出したものに違いない。ひどく快活で、そうしてちょっと男の子みたいな手剛さが、ここの看護婦さんたちに通有の気風らしい。

病を抱えた人間に対する、見事な励ましだと思います。

自らが快活であり、それを発散させることは、相手に勇気を与えます。

昔は、こういう医療者に憧れたものですが、実際には、なかなかできるものではないということも経験してきました。

けれども、そういう生命力に溢れたリズムは、医療者の理想像として、持っていたいです。

 

 

Pandora - John William Waterhouse

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