角田光代さんが、エッセイ「中年体育」のまえがきの中でフルマラソンをはじめとした「スポーツ(体育)」に挑戦する中年の心理をこう表現しています。
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もし20代の私が体育にいそしむ中年の自分を見たら、「イタい」と思うだろう。(略)年齢や、老いや、生活習慣病に、必死で対抗しているように見えたと思う。そんなふうにしか考えられなかった。
でも、違うんだよなあ。フルマラソンを走る、にしても、トレイルランニングをする、にしても、ヨガをするボルダリングをする、にしても、やってみて、いちばん興味を引かれるのは、「体力作りに有効かどうか」ではなく、「自分にできるかどうか」なのだ。できると、「えっ本当に?」と驚くし、できなければ、「やっぱりそうだよな!」と笑いたくなる。そしてやっぱり驚くのは、中年になって(からはじめて)もできることがある、と知ることだ。
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少々長くなっても引用したのは、ここで書かれていることに、すごく共感しているからです。
「そうだよ!」と手を叩いているのが半分。残りの半分は、「走っている理由」の解答を代わりにしてもらって、スッキリしている自分です。
「どうして走るのか?」
そういう問いは、多かれ少なかれランニングをする人の心に、去来してくるものです。
「なんで?わざわざ?キツい思いまでして?」と人から問われることもあるでしょう。
「う~ん。なんでかね?好きだから?(…言葉にしたら、ちょっと違う)」
立ち止まって深く考えたこともないので、曖昧な返事でお茶を濁すしかありませんでした。
若い時に、ランニング好きの人に「一緒にマラソンに出場しよう」と誘われたことがあります。
42.195キロを走り切るその人の意志に敬意を表しながら、「自分は性格的に長距離には向いていない。走っていると内に内に入ってしまって、暗くなる。しまいには『走っていてキツイのは生きている証拠』などと、可哀相なセリフで自分を励ますことになる。そこまでして走る気にならない。」とお断りしていました。
そういう性格が変わったのかというと、そうではありません。
なんでだろうと思っていて、その答えをずっと探していたのですが、ここに「ちょっと、いいんじゃない?」という言葉に出会いました。
「自分にできるかどうか」に興味があるから。
天邪鬼かも知れませんが、健康に有効かどうかは運動を続ける理由にはならかったと思います。
「自分にできるかどうか」
これって、すごいパワーワードだと思いませんか?