多少、昨日のブログの続きです。
「2001年宇宙の旅」を観ると、50年前の映画にも関わらずに決して色褪せない「未来像」に驚愕します。
その中のひとつ。
今の世の中で普及しつつある対話型のAIが、HAL9000のようなタイプに酷似しているのは決して偶然ではないでしょう。
データを手入力でインプットするのではなく、自ら必要なデータを収集し、取捨選択し、そのうえで分析し、結論を導き出す。
そういう自律型のコンピューターでなければ、宇宙旅行に求められる人間との高度な共同作業はできないだろうという映画製作者達の想像力の賜物なのだと思います。
ところで「2001年宇宙の旅」では、HAL9000がなぜ人間に対して裏切り行為を行ったのかが明らかにされていません。
HALのその行為の理由がすっきり明らかにされているのが、2001年宇宙の旅の続編である「2010年」です。
2001年に比べて「わかりやすい」というだけで、もしかしたら評価が別れてしまった映画なのだと思います。
アーサー・C・クラークの原作では〈宇宙の旅〉シリーズとして
2001年宇宙の旅
2010年宇宙の旅
2061年宇宙の旅
3001年終局への旅
の4冊が刊行されていますから、行き当たりばったりの続編ではないことがわかります。
けれども、2001年に比べてセリフが圧倒的に多いために、観客の解釈はある程度限定されてしまいました。
2001年の時に味わった難解で崇高(そう)な芸術作品を鑑賞している気分は半減されてしまっています。
なんとなく、「がっかり」感が拭えません。
つまり、いい意味でも悪い意味でも「すっきり」しているのが、この映画です。
でも、夢見ることがあります。
このモノリスが、現実世界に本当に現れてほしいという夢です。
けれども、すぐに自問します。
もしこのモノリスが現実世界に現れたとして、この映画のように人類は考えを改めるだろうか?
起こっていることを「素晴らしいことだ」と感じる感受性を、今の人類は持っているだろうか?
信じたい気持ちもあるし、不安でもあります。