八木重吉の詩を以前に紹介しました。
こちら → 「まちがい」
以前にも書きましたが、八木重吉の詩集を読んでいると、それらの詩が短いだけに奥深まらずに読み飛ばしてしまうのはもったいないです。
それは、まるで心象を切り取って見せる断面図が並んでいるショーウインドウのようです。
例えば、青空文庫に「秋の瞳」という詩集があります。
詩と詩の境目が本当に狭いために、つらつらと読んでいってしまいそうになるのを、必死でブレーキをかけながら読んでいきます。
読み進める…のではなく、読みとどまる。そんな感じです。
その中で、今日の気持ちに寄り添ってくれるような詩と出会いました。
心 よ
こころよ
では いつておいで
しかし
また もどつておいでね
やつぱり
ここが いいのだに
こころよ
では 行つておいで
「ここ」にもどっておいでというからには、その心とは「私の心」でしょう。
その心が自由に行ったり戻ったりすることができるのでしょうか。
いったいどこに行くのでしょう。
詩人にとっては、自分の心も客観視して観察の対象です。
「行っておいで」
自分でないところに行って、でも、また戻っておいで。
詩人は哀しいのでしょうか。ふと、そんな気がしました。