「走ることについて語るときに僕の語ること」

 

村上春樹さんが著したランニング・エッセイです。

最近読んだエッセイの中でも特に興味深く、また面白く読みました。

 走ることについて語るときに僕の語ること 村上春樹著

 

ランニングを通して自己の内面を対象として語る村上さんの言葉は、哲学的とも言えるほど深く堀り下げられたものです。

例えば、前置きの言葉。

「サマセット・モームは『どんな髭剃りにも哲学がある』と書いている。どんなにつまらないことでも、日々続けていれば、そこには何かしらの観照のようなものが生まれるということなのだろう。僕もモーム氏の説に心から賛同したい。」

 

そして、第一章の言葉。少し長いですが、引用させてください。

「走っているときにどんなことを考えるのかと、しばしば質問される。そういう質問をするのは、だいたいにおいて長い時間走った経験を持たない人々だ。そしてそのような質問をされるたびに、僕は深く考え込んでしまう。さて、いったい僕は走りながら何を考えているのだろう、と。正直なところ、自分がこれまで走りながら何を考えてきたのか、ろくすっぽ思い出せない。」

「僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得しうるために走っている、ということかもしれない。そのような空白の中にも、その時々の考えが自然に潜り込んでくる。当然のことだ。人間の心の中には真の空白など存在し得ないのだから。人間の精神は真空を抱え込めるほど強くないし、また一貫してもいない。」

「走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて過ぎ去っていく。でも空はあくまで空のままだ。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。そして空だけが残る。空とは、存在すると同時に存在しないものだ。」

 

これは瞑想(坐禅)をしている時の境地に似たものだと思いました。

瞑想をしている時は、浮かんでは消え、消えては浮かぶ思考を雲のようだと考えます。(流れる川面に浮かぶ木の葉のようだと説明する書物もあります。)

浮かんでしまう思考を、消してしまわなければならない雑念や妄念ととらえるのではなく、流れていく雲のようだと考えるようにします。ただ眺めているだけで良いのです。すると、やがて通り過ぎて消えていきます。

つい浮かんでしまう雑念をまるで悪いもののように扱わないようにすることが大事です。(「雑念ばかりでオレはダメだあ」と決して思わないこと!と諭されます。)

そして、雲が通り過ぎた、そこに残るのは青空としての我がそこにあります。

 

村上春樹さんがエッセイの中で述べていることが、実感として共感できたのがとても嬉しく思いました。

ランニングも瞑想も内省するという点で共通した行為なのですね。

 

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