「時間とは何か?」ということについては、かなり哲学的な問いかけになってきますし、考えれば考えるほど、よくわからなくなります。
その「よくわからない」ということを、端的に表したアウグスティヌスのこの言葉は、いろいろな場所でよく引用されていますね。
「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない。」
この回答の仕方は、いつか応用して使ってみようと思ったほど、的を射ていると思いました。
「言葉にしようと思ったら言葉にできない。」
そういうもどかしさ、歯がゆさがあります。ちょっと説明しようとすると、すぐに矛盾を自分で気づいてしまうからです。
そのアウグスティヌスが「告白」の中で時間について(まじめに)答えたのが次の文章でした。
「未来も過去も存在せず、また三つの時間、すなわち、過去、現在、未来が存在するということも正しくない。
それよりはむしろ、三つの時間、すなわち、過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在するという方がおそらく正しいであろう。
実際これらは心のうちに三つのものとして存在し、心以外に私はそれらのものを認めないのである。
即ち過去のものの現在は記憶であり、現在のものの現在は直感であり、未来のものの現在は期待である。」
つまり、過去も未来も現在のなかにある、と言っています。
龍樹(ナーガールジュナ)もそれに近いことを言っていますね。
「すでに去ったもの(過去)は去らない。
まだ去らないもの(未来)も去らない。
すでに去ったものとまだ去らないものとを離れて、現にさりつつあるもの(現在)は去らない。」
過去を認識したときには、すでに過去は存在しないものです。そして、未来は、まだ存在しないのですから、認識することさえできません。
過去も未来も実在しないということになってしまいます。
存在する全てのものは、どこに存在しようとただ現在としてのみ存在する。
時間は実在そのものなのだ。
三連休の頭で、ちょっとだけ哲学してみました(笑)。