「まちがい」

詩人 八木重吉の詩はほとんどが短く断片的で、まるで心象を切り取った切り口(断面)を見せてくれるかのようです。

心のゆらめきの中から、そっとひろいあげた言葉たちを、不完全であろうと修飾することなく忠実に描写しようとした詩なのでしょうか。

それは、読み手側と深く共感する一方で、じゃあ何に共感しているのか、それを言葉にするのが憚れるような、危うい感覚がつきまといます。
 
 
 
たとえば、八木重吉の代表的な詩に「草にすわる」があります。

3行だけの短い詩です。

 

 

草に すわる          八木重吉
 
 
 
  わたしのまちがいだった
 
  わたしの まちがいだった
 
  こうして 草にすわれば それがわかる

 

 

この詩を読んで、とても共感している自分を発見します。

ただ、八木重吉が言う「まちがい」が何であるかは、わかりません。説明もありませんし、私の共感は理屈抜きということになります。

 

 

理解する以前の共感…ということでしょうか?

誰でも、いつか経験したことのある自責の念?後悔?羞恥心?

 

 

同じ詩人 谷川俊太郎が、この「草にすわる」を受けて、次の詩を書いています。

私は、この詩にも共感しています。

 

 

間違い          谷川俊太郎
 
 
  わたしのまちがいだった
 
  わたしの まちがいだった
 
  こうして 草にすわれば それがわかる
 
 
 
  そう八木重吉は書いた(その息遣いが聞こえる)
 
  そんなにも深く自分の間違いが
 
  腑に落ちたことが私にあったか
 
 
 
  草に座れないから

  まわりはコンクリートしかないから
 
  私は自分の間違いを知ることができない
 
  たったひとつでも間違いに気づいたら
 
  すべてがいちどきに瓦解しかねない
 
  椅子に座ってぼんやりそう思う
 
 
 
  私の間違いじゃないあなたの間違いだ
 
  あなたの間違いじゃない彼等の間違いだ
 
  みんなが間違っていれば誰も気づかない
 
 
 
  草に座れぬまま私は死ぬのだ
 
  間違ったまま私は死ぬのだ
 
  間違いを探しあぐねて

 

 

 
2016-09-01 18.56.11

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