春木繁一先生の本を読み返していました。
サイコネフロロジーの臨床―透析患者のこころを受けとめる・支える 春木繁一著
本の紹介文にはこうあります。
日本のサイコネフロロジーの草分け、精神科医で透析患者でもある春木繁一先生の論文集。死に直面しながら生を意識する透析患者のこころの痛みにどう向き合えばよいか、否定的に表現される患者の行動をどうやって支えていけばよいかについてまとめた実践の書。
とりわけ患者の「透析を引き受けることの難しさ」「透析に対する否定的感情」について詳しく述べられています。
透析医療者は時々この本を読み返しては、自分の立ち居振る舞いについて省みる必要があるように思いました。
そして、今日紹介したいのは「あきらめる」という言葉についての春木先生の思いです。
この本の78ページにこんな文章がありました。
「あきらめる」とは「諦める」であるが、この場合は「ダメだと思って断念する・やめる」(三省堂「大辞林」)を意味する。
しかし、その前に「あきらめる」にはもうひとつ「明らめる」という言葉があることを知るべきである(三省堂「大辞林」)。
これは「あきら・む」で、1)物事の事情・理由を明らかにする、2)心を明るくする、心を晴らす、という意味があることが記されている。さらには、「あきら・む」(明らむ)には、物事が明らかになる、確かめられるの意味がある。
すなわち、日本語の「あきらめる」という言葉は、本来「明らかにする・確かにする」という意味をもつのである。しかも「心を明らかにする・心を晴らす」意味をもつ。なんと素晴らしい言葉かと思う。
私も「あきらめる」境地に憧れている者です。
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