診療の現場で、私はスタッフに思わず漏らしました。
「あの患者さんが何を言っているのか、話はするんだけど、どうも自分に通じていない気がする。」
改めて対話することの難しさを感じています。
下図(土居健郎 1992 方法としての面接 ―臨床家のために―から引用)で説明してみます。
「相手が何を訴えようとしているのか、何をわかってほしいのか」という点で、対話してそれを果たすことは難しいと感じました。
それは、自分のことを「わかってほしい」という願望をもち、積極的に語ってくれる方に対してもです。
「わかってほしい」と思う人の中には、「自分の何をわかってほしいのか」ということが自分でもよくわかっていない人がいるようです。
「その「何か」を一緒になって考えてほしい。それを探り当てて教えてほしい。」という気持ちが見え隠れしているような気がするのです。
そういう時は、気安くわかったつもりになってはいけないのだと思います。
「わかられている」と思っている方は、それを信じ込んでいるので説明が大幅に省略されてしまいます。
「残念ながら、私はあなたのことをわかっていません。」
もう一度訊くこともはばかられるのですが、そう訊いたとしても、あまり良い説明をしてくれません。
そうは言っても、根負けをして中途半端な相槌を打とうものなら、それを見抜かれていますから対話が苦しくなります。
「わかっている」と早合点している方との対話も、やはり難しいです。
根拠や確実でないことを調べたわけでもないのに、それを信じ込んでいる場合です。
「自分はわかっているんだ」というのは態度に表れますから、どう対話の糸口をつかめば良いのかわからなくなります。
「わかりっこない」と決めつけて対話に臨んでいる方との対話には、長い沈黙が待っています。
あるいは、挑戦的な言葉を向けられるかも知れません。
そして、それを根拠に「やっぱりわかりっこないんだ」と信念を強くされてしまいます。
「わかられたくない」という方もいます。
そっぽを向かれた人には、粘り強い根気と長い時間が必要です。
それを考えると、対話を受け入れてくれること自体がよろこびなのかも知れませんね。