「ゆるし」の過程には、痛みが伴います。
ゆるそうとすればするほど、ゆるせなくなってくるのは誰もが経験することでしょう。
怒りや恐れ、罪の意識など、頭の中に出口のない思考の渦巻きがエンドレスに続くようです。
また、嫌悪や怒りの持続は、同じベクトルを持って、やがて恨みや憎しみへとエネルギーを蓄えていきます。
「ゆるし」についての探究は求めれば求めるほど難しく、しかし人生を切り開いていくには是非必要なことだと感じています。
たとえば、浄土宗を開いた法然上人の幼き頃のお話などは奇跡に近いのではないかと思うのです。
法然自身、父親が政争に巻き込まれて殺されるという悲運に見舞われます。
幼い法然に非業の最期を迎えようとする父親が遺した言葉はこのようなものでした。
「汝、仇を報ずることをやめよ。これひとえに余が先世の宿縁なり。
わが傷痛み、苦しみはなはだし。
されど今こそわが傷の痛み苦しみによって、他の傷の痛み苦しきことを知れり。
汝、敵を憎み殺せば、敵の子もまた汝に刃を加えこの苦痛を与えよう。
汝の子もまた敵の子を憎み刃を加えんとし、世々生々、殺し合い傷つけあうこと限りなくなろう。
汝よ、敵を憎むことを捨てて出家し、高き立場より敵をも抱きてともどもに救われる道を求めよ。」
恨みは恨みによってはやまない。
あの時代、自分の仇をとってくれとは言わず、わが子を思い、敵さえもともに救われる道を求めよという言葉を遺した父親は、なんてすごい人なのでしょう。
そして、法然もまたそれに生涯をかけて応えようとしたのですね。