「自分の感受性くらい」

 

男女を問わず、凛然とした方には畏敬の念が自然に湧きあがるものですね。

憧れといった方があってるのかも知れません。

口に出すはっきりとした言葉には力がありますし、心の中で共感し(よしっ)とつぶやいている自分に気づきます。

自分にとって、それが顕著な方が、詩人 茨木のり子さんです。

例えば、次の詩に触れた時、背中に電流が走った気がしました。

 

自分の感受性くらい

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて

 

気難しくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか

 

苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし

 

初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 

駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

 

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

 

 

最後の「ばかものよ」という言葉が突き刺さります。

ほかにも、実態のない感情や思想については特に辛辣な気がします。

そのうえで内面をえぐったような詩についても、共感し唸ってしまいます。

 

 

敵について

 

私の敵はどこにいるの?

 

  君の敵はそれです

  君の敵はあれです

  君の敵はまちがいなくこれです

  ぼくら皆の敵はあなたの敵でもあるのです

 

ああその答のさわやかさ 明解さ

 

  あなたはまだわからないのですか

  あなたはまだ本当の生活者じゃない

  あなたは見れども見えずの口ですよ

 

あるいはそうかもしれない敵は…

 

  敵は昔のように鎧かぶとで一騎

  おどり出てくるものじゃない

  現代では計算尺や高等数学やデータを

  駆使して算出されるものなのです

 

でもなんだかその敵は

私をふるいたたせない

組みついたらまたただのオトリだったりして

味方だったりして……そんな心配が

 

  なまけもの

  なまけもの

  なまけもの

  君は生涯敵に会えない

  君は生涯生きることがない

 

いいえ私は探しているの 私の敵を

 

  敵は探すものじゃない

  ひしひしとぼくらを取りかこんでいるもの

 

いいえ私は待ってるの 私の敵を

 

  敵は待つものじゃない

  日々にぼくらを侵すもの

 

いいえ邂逅の瞬間がある!

私の爪も歯も耳も手足も髪も逆だって

敵! と叫ぶことのできる

私の敵! と叫ぶことができる

ひとつの出会いがきっと ある

 

 

 

最近、また茨木のり子さんの詩集を取り出しては、繰り返し読むようになりました。

背中をバシッと叩かれた気がして、しゃんとします。

 

 

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