先日、東京で学会のついでに寄った本屋で
フランクルの著書の特集をしていました。
何が書いてあるかは、もちろん知っています。
それでも、衝動買いをしてしまいました。
「それでも人生にイエスと言う」V・E・フランクル著
フランクルの言葉に触れていると勇気がもらえるからです。
例えば、27ページの文章
私たちが「生きる意味はあるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。
つまり、わたしたちは、生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。
私たちは問われている存在なのです。
私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない。
答えを出さなければならない存在なのです。
生きること自体、問われていることにほかなりません。
私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。
そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。
こう考えるとまた、おそれるものはもうなにもありません。
どのような未来もこわくはありません。
未来がないように思われても、こわくはありません。
もう現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。
すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。
その際、どんな未来が私たちを待ち受けているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。
この著作の中で、フランクルはひとつの格言を引用しています。
「もし私がそれをしなければ、だれがするだろうか。
しかし、もし私が自分のためにだけそれをするなら、
私は何であろうか。
そして、もし私が今しなければ、いつするのだろうか。」
人は唯一のものでありながら、何かに尽くさなければ無意味であるということ。
そして、「生きるとは、問われていること、答えること。」というコペルニクス的転換。
学会でめぐり合ったこの本に、なぜか引き寄せられたような気がします。