「窓」

中学の時だったか高校の時だったか忘れてしまいましたが

国語の教科書にボードレールの詩が載っていて、読んだ記憶があります。

 

実を言うと本当に載っていたのかは自信がありません。

もしかしたら、受験勉強中に使っていたテキストに載っていたのかも知れないし

それこそもしかしたら、試験の設問の中に、その詩が使われていたのを

気に入ったので本を購入して読んでいたかも知れないです。

当時は、例えば湯川秀樹博士のエッセイを、試験問題で読んで感動してしまって、全文を読みたいと思って結局本を買って読んでいましたから。

 

お気に入りだったのが、ボードレールの「窓」という散文詩です。

 

 

 

 開いた窓を通して外から見る人には、閉じた窓を見る人ほどに多くのものが見えることは、決してない。

蝋燭の光に照らされた窓ほどに、深遠で、神秘的で、豊かで、暗くて、眩ゆいものは、ほかにない。

陽の下で見えるものは、決して、硝子窓の後ろで起こることほどに興味深いものではない。

この暗い、あるいは明るい穴の中で、人生が生き、人生が夢み、人生が苦しんでいるのだ。

 

 屋根また屋根の波の彼方に、僕は見る、既にしわのある、貧しい中年女性が、いつも何かに身をかがめて、決して外に出ることもないのを。

その顔から、その衣服から、その身振りから、ごくわずかなことから、僕はこの女性の物語を、あるいはむしろその伝説を、作り上げたのだが、時々僕は涙を流しながら、それを自分自身に語って聞かせるのである。

 

 もしそれが、哀れな年寄りの男であったとしても、僕は同じくらい容易くその伝説を作り上げたことだろう。

 

 そして僕は床につく、自分以外の人々の中で生きて苦しんだことを誇らしく思いながら。

 

 多分あなたは言うだろう、「その伝説が真実であることは確かかい?」と。

僕の外にある現実なんかどうでもいいだろう? それが僕が生きることを助け、僕があることを、また僕が何であるかを、感じる助けになったのなら。  

山田兼士 訳

 

 

当時、なぜこの詩が好きだったのか、今となっては思い出せないのですが

わずかな情報でその人の「物語」をイメージしていくことが、自分の喜びであり、存在価値なのだと言い切る作者に、共感していたのかも知れません。

 

作りあげた「物語」が

「隠れているものを見抜いている」のか

「見当違いの妄想」なのかは大きな違いですね。

 

 

イメージを押しつけない謙虚な気持ちで臨むのなら、医療者として良い助けにはなると思います。

 

 

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