阿修羅像のフィギュア

阿修羅が好きで、興福寺の阿修羅像のフィギュアを院長室に持ち込んでいます。

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15センチほどのフィギュアですが、本当にとてもよくできていて興福寺の阿修羅像を見事に再現しています。

特に阿修羅像は、人の心をとらえて離さない魅力的な仏像のうちの一つだと思います。

 

正面の表情は眉を少し寄せた「心の葛藤」や「懺悔」とも読み取れる複雑な表情をしていて

厳かな美しさがあります。

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この像は、悪鬼の神であった阿修羅が、仏教に帰依し、仏法の守護者として八部衆に入れられた後の姿ということです。

 

阿修羅についての紹介をします。

阿修羅はもともと正義の神です。

しかし、阿修羅は帝釈天に戦いを挑み続ける悪鬼の神として認識されています。

どうして正義の神が悪鬼の神となったのかは、こんな逸話があります。

 

阿修羅は天界のひとつである仭利天(とうりてん)に住んでいました。

彼には舎脂(スジャー)という美しい娘がいて、目に入れても痛くないほど溺愛していました。

このスジャーに、帝釈天が一目ぼれしてしまい、縁談を申し込みます。

帝釈天とは「力の神」で、天界において神々の統治者ともいうべき存在の神でした。
 
阿修羅は、いずれ娘を帝釈天に嫁がせたいと思っていたので、この申し出を非常に喜んでいました。

 

しかし、帝釈天はスジャーを力ずくで奪ってしまいます。

ある日偶然に路上でスジャーの姿を見かけた帝釈天は、いてもたってもたまらず

誘拐して陵辱してしまったのです。

娘を探す阿修羅は、ことの成り行きを知り、激怒し帝釈天に戦いを挑むこととなります。

 

阿修羅は正義の神です。

相手が誰であろうと、帝釈天の行為を許すわけにはいきませんでした。

一方、帝釈天は「力の神」」無敵の神です。

阿修羅が軍をおこし、帝釈天に戦いを挑んでも、その度に打ち負かされてしまいます。

 

しかし、阿修羅の燃える怒りは激しさを増すばかりです。
 
何度も何度も敗北しても、阿修羅は戦いを挑み続けます。
 
正義の旗のもとに、何度も何度も際限なく戦いは繰り返されていきます。
 
戦いを繰り返すうちに、執念の炎は燃え盛り、善の心は失われていきました。
 

そして、ついになぜに戦いを挑んだのか、当初の目的を忘れてしまいます。

怒りにまかせ、戦うことが目的となってしまったのでした。
 
この話が天界に広まり、ついに追放され、人間界より低いランクの修羅界に落とされてしまいます。
 

阿修羅は、自分が正しいと信じた正義に固執し続け、妄執の悪となってしまいました。

 

そういう心は、程度の差はあれ、人間なら誰にでもあるものではないでしょうか。

阿修羅の悔しくて悔しくてしようがなくて、どうしても許せない気持ちは、誰にでも理解できるものでしょう。

もしかしたら、帝釈天よりも阿修羅の肩を持つ人の方が多いかも知れないと思います。

なぜ帝釈天に罰はおりず、阿修羅が天界から追放されなければならなかったのか。

 

けれども

「絶対相手が間違っている」

「オレは絶対許さない」

「オレが正しい。周りが不条理なのだ。」

そうやって、その鋭い刃を外にまわし続けていたら

やはり、そこは地獄です。

 

「自分の方が正しいのに」と思った瞬間こそが、修羅の道へ歩みだしているのかも知れません。

 

私がこの阿修羅像に惹かれてしまうのは

「立ち止まって、よく自分を振り返りなさい」ということなのでしょうか。

 

この阿修羅像のフィギュアを眺めながら

「傲慢になってはいないか」

「自分よがりの正義を振りかざしてはいないか」

と自分の心をみつめる機会としています。

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宮沢賢治に傾倒している私の大好きな先輩が、「春と修羅」のこの一文を思い起こさせてくれました。

 

いかりのにがさまた青さ

 四月の気層のひかりの底を

 唾(つばき)し はぎしりゆききする

 おれはひとりの修羅なのだ

 

私も大好きな宮沢賢治の「心象スケッチ」です。

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